「Waving Life~それでも双極とともに生きていく」 by Luna

はじめまして。Lunaと申します。
双極性障害Ⅱ型で東京在住の42歳です。
画像はTwitterアイコンでもある、愛猫“悠璃(ゆうり)”です♡

第一章はですます調じゃない文体ですが、その方が簡潔で私らしい文章になると思ったので、それで失礼させてくださいませ。
長いですが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

のこ太
はじめまして!のこ太だよ!
のこ美ちゃん
愛猫の悠璃ちゃん、とても可愛いわ♡

1. 私の人生

 1.1 幼少期~過度な期待と見捨てられ不安の芽生え~

父40歳、母37歳の時の子で、当時は高齢出産。
しかもその前に流産・死産が2人いたそうで、私は物心つく頃から、母にいつもいつも「あなたには3人分の期待がかかっているのよ」と言われて育った。
私はそれを真に受けて、一生懸命母の期待に応えようとして、「良い子」を演じた。
母は過保護過干渉で、しかも自分の夢や憧れを私に投影していた。
私は常に母のその眼差しを受けて、「母の期待に応えられなかったら見捨てられるかも」という不安を無意識に抱えていた。(←後のカウンセリングで自覚)

七五三(7歳)で明治神宮へ
のこパパ
やっと産まれてきてくれた我が子への愛ゆえに…だろうな。
のこママ
幼い頃からの刷り込みは記憶に残るものね。

 1.2 小学校時代~いじめから、第1・第2の自己否定~

1年から6年までずっといじめに遭った。
殴る蹴る、暴言、無視、バイ菌扱い、物を隠されたり捨てられたり。
逆に自分の物を私のロッカーに入れて泥棒扱いしたり。
何か少しでも失敗するとみんなで笑いものにしたり。
ビービー弾の的にされたりもした。

痛みと屈辱と悲しみと孤独感、無力感でいっぱいの日々。
それでも成績だけは良かったので、それが余計いじめっ子達を刺激したのかもしれない。

2年生の時、席替えで毎回一番暴力的な子の隣にされたので、耐えかねて先生に相談すると
「あなたなら耐えられるでしょ」
と言われた。
耐えられるはずなんかない。
もう二度と相談しようと思わなかった。

母に相談すると、母は
「そんな子になんて負けないの!名誉の孤立を守りなさい!」
と言った。(今でも鮮明に覚えている)
『名誉の孤立』って何?…ていうかまだ2年生だよ?
その頃は母が絶対だったから守ろうとしたけど、余計いじめられただけだった。
そんなもの守れるはずもなく、毎日泣きながら帰った。
それでも、家に着くまでには必ず泣き止んだ。
母にも、もう二度と相談することはなかった。

しかしここで母の期待に応えられなかったことが、私の自己否定の第1の礎であると思う。

のこ助さん
名誉の孤立ってなんだろうな…
のこ蔵さん
わたすにはわからねぇデス…

そして5、6年の担任は、生徒の先頭に立って私をいじめた。
何も悪いことをしていないのにビンタされたり、男の子ととてもまじめな話をしていたのに、イチャイチャしてたと授業参観で親が見てる前で冷やかされたり。
体育で怖かったのに無理やりやらされた台上前転で落ちた時には、先生とクラス全員に爆笑された。
痛みを堪えて一人で保健室に行ったら、肘の骨にヒビが入った大怪我だった。

6年になって中ごろから、私は
「どうしていじめられるんだろう。どうやったらいじめられなくなるんだろう」
と真剣に考えるようになった。

そして、私が悩んだ末に出した結論は、
「決して怒らず、いつもニコニコ。目の前にいる相手に100%合わせる」
だった。

それから私は何をされても言われても一切怒らず、笑顔で耐えた。
自分の意見や主張も一切言わなくなった。
そして目の前にいる人の期待に100%の形で応えようとして、人に合わせて無数の仮面を作っていった。
それが本当の自分を押し殺した第2の自己否定。

そしていじめは少しずつ沈静化していった。

5年生の頃、習っていたバレエの発表会で
のこ太
“先生が先頭に立って”だなんてヒドイよ…

 1.3 中学校時代~充実した学校生活と『壁』の発露~

中学に入ると、いじめていた子はほぼ別の中学に行き、私はテニス部に入って仲の良い友達もでき、学校生活はぐんと楽になった。

2年生になると、なぜか不良集団に気に入られるようになり、文化祭の合唱コンクールや演劇にも全面的に協力してくれた。
おかげで私は3年間合唱のピアノ伴奏をやらせてもらい、3年の劇では脚本・演出をやらせてもらった。
その劇が終わって、最後に私が挨拶に出た時の「るなコール」が忘れられない。
人生でベスト3に入るくらいの感動の瞬間だった。

一方、学校外では、地域の子ども会に参加していて、2年生の時サマーキャンプに行った。
憧れの先輩に恋していた私はその人しか見えず、なのに彼とその周りの人と私の間には越えられぬ無数の壁が見えた。
結局誰とも仲良くなれないまま、孤独感と疎外感を抱いて帰ってきた。

この時感じた周囲の人との間の『壁』は、その後も幾度となく感じてきた。
今も感じることが多い。
たぶん私の劣等感や引け目、嫌われることへの恐怖や不安が形作っているのだと思う。

のこ美ちゃん
これまで積み重なったものが壁を作っていったのね。

 1.4 高校時代~部活に恋愛に全力→第3の自己否定~

高校でもテニス部に入るが、あまりに熱心に練習し過ぎて先輩に気に入られたことで、同年から疎まれ、仲間外れにされるようになり、ちょうど膝を故障したことで1年で退部。

2~3年生では一転、演劇部とフォークソング部でとても楽しく過ごし、大好きな先輩や未だに付き合いの続く親友とも出会えた。
お酒を覚えたのもこの頃。笑
フォーク部ではコンサートや合宿に必ずOBの方が来てくださって、現役も連れて打ち上げになる(もう時効ですよね^^;)。
それがもう、楽しくて仕方なかった。
毎回朝まで付き合っていた(お酒強い方で…笑)。

のこバブちゃん
ばぶ!ばぶ!(※未成年の飲酒はダメだからね!)

2年の文化祭では副実行委員長になり、演劇部の公演やフォーク部のコンサートにも出演。
3年の文化祭ではバンドを組んだり、同好会で琴を弾いたりでとても充実して楽しんだ。

高3の文化祭でバンドを組んだ時

また、疎外感と怖れを抱きつつ、子ども会に指導員として参加し始めた。
すると中学の時とは違い、イベントの準備や進行を一緒にする中で、『仲間』と呼べる人々と出会い、指導案の書き方を覚え、会議のやり方を知った。ここで彼氏もできた。

そして彼氏ができてからの私は、とにかく恋愛にのめりこんだ。
恋愛論や恋愛小説を片っ端から読み、いかに自分が彼にとって必要とされる居場所になり得るか必死で研究した。
でもそれは、自分の気持ちを押し殺すことと同義だった。

ここで第3の自己否定。
私はありのままの私でいたら好かれるはずがないと思い込んでいた。
自分はこのままだと彼に相応しくないから、常に目一杯努力して「いい彼女」でいないと嫌われてしまうと思った。
願望も嫉妬も淋しさも悲しみも怒りも何もかも、ただ日記にだけぶちまけて、彼には一言も言わなかった。
自分の気持ちは必死に押し殺して我慢して、笑顔で居続けた。
―それが後に爆発する時が来る。

のこ太
この先にも過酷な体験が待っているのかな…
のこ蔵さん
わたすはしっかりと見届けますぞ!!!!
のこ助さん
(今日ののこ蔵さんは頼もしいな…)

 1.5 大学時代~うつへの転落~

第一志望の大学に落ちて、滑り止めの私大へ。
それでも小学校教員養成課程だったので、頑張って勉強はしていた。

でも、体育のテニス専攻で運命の出逢い。
隣に座った男の子に一目惚れ。
勇気を振り絞って声をかけたら親しくなれて、急速に仲を縮めて行く。
同じテニスサークルにも入って、どんどん惹かれて行って→夏休み、ついに付き合うことに。
…まだ高校の時の彼と付き合っていたのに…。
で、誕生日を契機に大学の彼に二股を告白。
一度は身を引いた彼だったが、私の方が諦めきれなくて引き留めた。
前彼の方には何も言ってなかったけど、2年の4月にちょっと揉めて、それまでの私の我慢や怒りが爆発してお別れ。
前彼、軽くストーカー化。
家の前で待ち伏せされたり、毎日便箋10数枚の手紙がきたり。
でもすべての感情が爆発した後の私には、前彼への気持ちは微塵も残っていなかった。

2年の夏には大学の彼氏も子ども会の活動に引っ張り込んで、一緒にキャンプへ(前彼はもういなかった)。
でもこの頃から意見の相違が目立ち始め、言い争いも多くなる。
今でいうデートDV的なこともちらほら。
何故怒られるのかわからないことも多く、自分を責めて激しく凹んだ。
そしてだんだん癒えない傷がうつへと変容していく。

3年の夏のキャンプには他の団体の人も巻き込んで私が総責任者になったのだが、全てのことを把握しきれずキャパオーバーで軽いパニック状態に。
彼氏のみならず他の指導員からもめちゃくちゃ責められた。
さらに指導員対父母のバトルも勃発。
私は板挟みになり、一人では到底対処しきれず、秋にかけてどんどんうつが酷くなる。

そのタイミングで、高校のフォーク部で大好きで憧れてやまなかった先輩が自死された。
魂をえぐられるようなショックだった。
泣き疲れて感情が死んだ。
これが引き金になって一気にうつが加速。日常生活に支障をきたすレベルに。

さすがにおかしいと自分で気づき始めたので、彼氏に相談したら「気の持ちようだ」「甘えだ」「怠けだ」みたいなことをもっとずっと酷い言葉で散々言われた。(言葉そのものはつらすぎて忘れた)
彼氏は何をどう言ったら私の精神を崩壊させられるのかをわかってて言える人だった(自分でそう言っていた)。
私は傷つき過ぎて起き上がれない状態に。
3日くらい、トイレにも1人で行けなかった。

初めに受診した病院では、「あんたは病気じゃない」と冷たくあしらわれ、安定剤(?)だけもらったが、「こんなにつらいのに病気じゃないなんて!!じゃあ全部私が悪いの?これは私のせいなの?だったらもう生きていけない!」と自暴自棄になり、初めての自殺未遂。
とりあえずもらった薬を全部飲んで、剃刀で手首を切った。
が、すぐに母親に見つかり、救急車で連れて行かれて生還。

少し元気を取り戻すと、彼氏に「あなたのせいで自殺しかけた」と半ば言いがかりの手紙を送りつける。
もう2度と会いたくないと思っていた。

ところが、運命というのはやっぱりあるんだなぁ。

年が明けて、私が3ヶ月ぶりに登校したその日に、廊下でばったりと逢ってしまう。
お互いそのまますれ違ってしまえずに、それからずっと話し込み、カラオケに行って二人で号泣しながら歌い、そのまま彼の家に行って元鞘に戻ってしまった。

一度は大学に復帰した私だったが、夏前にまた体調を崩し、初めての入院。

その時はなぜか両親を完全拒否で、顔も見たくなければ足音すら聞きたくないという状態。
家にいると常にパニックになり、自分から入院を希望した。

そして退院後すぐに彼氏のアパートの近くに引っ越して一人暮らし開始。

今考えると両親を完全拒否した理由は、この頃カウンセリングを受けていて、私の自己形成の根本の部分が、母からの過保護過干渉とそれに対する不安と自己否定によって傷ついていると気付いたからだと思う。
生まれて初めての反抗期だったのかもしれない。

そしてまた大学に復帰したのはいいものの、勉強や研究の行き詰まりや彼氏との関係などに消耗し、自暴自棄になってまたOD。
今度は「完全自殺マニュアル」に書いてあった薬を書いてあった量だけ飲んだのに、丸一日昏睡しただけで生還してしまった。(記憶障害はこの後遺症ではないかと後になって言われた)

卒論は臨床心理のゼミに入り、「心に傷を持つ子ども達の地域での居場所」というタイトルで、子ども会の中のいじめられて不登校になった人達にインタビューし、自分の経験も踏まえて作成。
まさに今までの人生の集大成のような感じで、苦しみつつもその時の自分の全てをかけて書き上げた。
読んだ教授に泣いたと言われ、ゼミで唯一「S」評価をもらう。

しかし教育実習に行けなかったので、教員免許は取れず。

のこ美ちゃん
大学時代もいろんな苦悩があったのね…
のこ蔵さん
大学…うっ頭が…
のこ助さん
(やっぱりいつもののこ蔵さんだな…)

 1.6 発病後から結婚まで~うつから双極へ~

少し話は戻るが、発病して半年後の3年生の3月。
友達に誘われた教育系のインカレゼミで、またまた一目惚れ(だから彼氏いるのに…)。
その人は知識や考えがすごく深くて惹かれたし、彼もうつ病(本当は違ったかも)だと知ってますます惹かれた。

夏休み前ごろ、私もうつだと打ち明けたところ、親近感が湧いたのか、夜中に長々と電話をしてくるようになり、「今から死ぬ」という電話も何度となくあった。
私はその人を何とか助けたい一心で振り回されるようになり、どんどん巻き込まれていったが、自分ではその人のことが好きだからそうしているのだと思っていた。
なので、卒業と同時に大学の彼氏と別れる。
この時さんざん揉めて、彼氏は車を自損で大破させたりし、「人殺し」と罵られた。
が、彼は九州の実家に帰った後だったので、辛うじて事なきを得る。

その後、ゼミの彼のことはずっと好きだったし、2人で会ったりもしていたけれど、彼が誰にも恋愛感情や性欲を抱けない「Aセクシュアル」だと告げられ、絶望→性的逸脱に突っ走る。
その数年で両手を超える人数を経験。笑

この頃は今考えれば躁鬱の波がものすごく激しかったのだが、まだ双極性障害とは知らなかったので、訳もわからず振り回されていた。

また、『自分は中身のない多面体である』という認識に至ったのもこの頃。
誰かに合わせて作った無数の仮面の一つ一つが多面体を成していて、スポットライトがどの面に当たるか(自動=無意識で切り替わる)によってキャラが変わる。
でも内側は空洞で、中身=本当の自分はどこにもいない、という自己認識。
この感覚は当分続く。

25歳の時、地元の芝居で突然脚本を書きたいと言い出し、演出もすることに。
が、あまりにも重いテーマだったため書いては倒れ、書いては倒れの毎日。
稽古に行けば物凄く激しい調子で自分の演出を押し通していたらしい。
(自分ではあまり覚えていない)

それを心配したのかゼミの彼はわざわざ稽古前に毎回電話をかけてきてやめさせようとした。
夜中にもひっきりなしに電話がかかってくる。
死に物狂いでやっていることを、死に物狂いで邪魔してきたのだ。
私は完全に壊れた。

「私は彼をこんなに傷つけているのに、私が傷ついてないのはおかしい」
「心がこんなに傷ついているのに、身体が傷ついてないのはおかしい」
「私は存在してはいけない人間なんだ」
「私の罪は誰にも赦されないんだ」
などと訳のわからない思い込みで混乱し、毎晩、手首のみならず、腕、胸、腹、太ももと全身切り刻むようになっていった。

その時、切りながら、泣きながら、電話で助けを求めていたのが今の夫。

夫とは、この2年ほど前から長文のメールを頻繁にやりとりするようになっていた。
その中で私は、自分でも驚くほど愚痴や泣き言や甘えも含めた“本音”をありのまま吐露していた。
そんなことができたのは夫だけだった。
この時夫がいてくれなかったら、恐らく今私は此処にいなかっただろうと思う。

公演の翌日、病院に行って主治医に傷を見せたら、その場で即入院。
1ヶ月ほど入院していたが、そこでゼミの彼からはもう離れて、夫に逢いに行くことを決意。
夫はその時実家のある四国に帰っていたけれど、退院直後に逢いに行って、その場で結婚を決めた。

でも、付き合ってたのかどうかすら曖昧だったはずのゼミの彼と揉めに揉め、彼は完全にストーカー化。
毎日何十回も電話してきたり、夫と私の居場所(四国で半同棲してた)を突き止めようとして夫の恩師や父親の関係にまで連絡したり、共通の友人達に私達の悪口を言いふらしたり。
私が電話に出れば「人殺し」と罵り(人生2度目)、何時間も責め続けた。
私は憔悴しきり、最後は弁護士さんに介入してもらう騒ぎに。

幸せの絶頂と地獄のどん底を行き来しているような1年だった。

のこ太
いろんなエピソードが凝縮されているね。

 1.7 結婚から今まで~前半:躁とうつのラピッドでめちゃくちゃな日々~

結婚するとすぐに妊娠した。
大量の薬を飲んでいたが、発覚と同時に自己判断で全て断薬。
当然、酷い状態に。
悪阻(つわり)も酷くて、毎日泣いたり喚いたり寝たきりだったりパニックになったり。
本当にめちゃくちゃだったと思う。
妊娠後期に入って、やっとデパスだけ処方してもらったけど、奇形が出やすいと言われたこともあり、産まれるまでずっと不安だった。

微弱陣痛での入院から3日、12時間の陣痛の末、息子は無事産まれた。
産まれた直後の息子を見て思わず名前を呼ぶと、ふっと泣き止んでこちらを見た、あの瞬間は一生忘れない。
人生で一番の感動の瞬間だった。

3ヶ月実家で過ごした後、夫の実家の近くに引っ越した。
全く知らない土地で、夫の家族以外誰も知り合いもいなくて、夫は仕事でほとんどいなかったため、たった一人で慣れない子育て。
夫の実家は近いけど、そうそう頼れないと必死で頑張った。
それでもつらくて、しょっちゅう東京の実家に帰っていた。
息子は寝つきが悪く、眠りも浅く、夜中に何度も泣いた。
睡眠が足りなくて疲労困憊していても、母乳はあげないといけないし、家事もしないといけない。
授乳中は甘いものも油ものも食べられないし、さすがに痩せた。

1歳になって断乳した直後、ホルモンバランスが狂ったのか、病状が劇的に悪化。
行商のパン屋の音声に怯えたり、いきなり号泣し出したり、パニック発作も頻発したため、3か月入院。
その間息子は夫の実家に預けていたが、退院してもほぼ何もできず、息子は保育園に預けることになった。

この頃、激躁・激うつ・混合がラピッドサイクル化。
痩せて初めて理想の体型になれた私は舞い上がり、入ったばかりの障害年金を服飾雑貨に注ぎ込んだ。
ブランド物の服や靴、バッグなどを買いまくり(全て通販)、信じられない額を散財した。
その一方、寝たきりの布団の中でアイスを1日に20個も食べたり、もう本当に訳がわからない状態。
家事育児も全くできず。
ほとんど記憶もない。

そのさなか、難病だった父が逝った。
スイッチがブツンと切れた。完全に寝たきりの日々が1年近く続く。

息子が4歳になった頃、私に仕事の話が舞い込んだ。
夫の勤めている塾で、私も非常勤講師をやってもらえないかという話だった。
家での閉塞感に辟易していた私は飛びついた。
でもそれが週1から週3になり、週4になり、週5になると、ついていけなくなった。
息子の顔を見る暇もないくらい必死でのめりこんだ。

そして4年後、2年生の3学期になって息子が宿題をやるのを渋り始めた。
漢字3文字で癇癪を起こす。
その癇癪ぶりが半端じゃない。
何かおかしいと思った私は、息子を病院へ。
発達障害の診断が下りる。
私は仕事を辞め、そこから私の人生は息子一色になる。

ただ、いきなり仕事を辞めたので、また体調がめちゃくちゃに。
不登校になった息子と家で二人きりで、地獄のような日々。
息子は「死にたい」と言い出し、「母さんのせいだ」と毎日責められた。

その頃夫も体調を崩し始め、うつ病と診断された。
塾の上司のパワハラが一番の原因だと思うが、その時は夫も夫の両親も私のせいだと言って私を責めた。
夫とは喧嘩が絶えず、離婚を切り出されたことも。

私は
「そんなに全部私が悪いなら、私がみんなを苦しめているなら、私なんていなくなった方がいいんだ。それでもっと健康で優しい人に来てもらえばいい」
と、本気で思って家出した。
死を覚悟した家出だった。

でも息子のことがどうしても心残りで携帯の電源を入れてしまい、すぐに見つかってしまう。
迎えに来た夫は何も言わず車の中で号泣した。
それを見て、あぁ私はまだこの人に必要なのかな、と思えた。

その日、息子とも約束した。
「お互い、もう死ぬって言うのやめよう」と。
その約束は今も二人の中で生きている。

そしてこの約束が、その後の私と息子との関係の起点になった。
それからの私は、ボロボロだった息子との絆を回復することを第一義に生きるようになる。

のこパパ
子どもとの約束、いい起点だなぁ。

 1.8 結婚から今まで~後半:東京暮らし、寛解から再びうつへ~

息子が小6になる頃、私の体調はやっと合う薬が見つかったことで劇的に落ち着き、結婚後初めて「フラット」な感覚を持てるようになっていた。

一方、母の認知症的症状が強くなり、夜中に何回も電話をかけてきたり、訳のわからないことを言い出すので、だんだん心配になって、実家に帰った方が良いんじゃないかと思うようになった。

ちょうど、息子が小学校を卒業するので、東京の中学に行かせたいと思った。
息子は4年生からほとんど登校していないので、それを知っている同級生たちと同じ中学には通えないだろうし、その地域にはフリースクールも発達障害の支援施設もなかったので、中学3年間引きこもって過ごすよりは少しでも中学生活を楽しんでほしかった。
夫と、私と息子との関係もあまり良くなく、家族として暮らすのがしんどかったのもある。

そして東京行きを決めたが、夫に話すと反対されると怖れて事後報告になったため、よけい揉める。
でも結局東京の私立中学を受験→合格→息子と2人で実家に引っ越し。
同時に夫はうつのため退職し、家に残った。

実家で、息子と母と3人での同居生活が始まるも、すぐに息子と母とのバトルが勃発。
息子はASDのこだわりや強迫性の潔癖などがあり、それを母は理解できない。
母は認知症で何度言ってもわからないのを息子は受け入れられない。
年末にはお互いに虐待に近い応酬をするようになり、私も板挟みで憔悴。別居を余儀なくされる。

2月に私と息子が家を出て知人のマンションに移り、私は家賃のため週5日必死にバイト。
3か月後に母がグループホームに入居。
夏休み前に限界を感じて仕事はいったん辞め、夏休みは夫の元でゆっくり過ごし、9月に息子と実家に戻った。
友人の紹介で私の再就職先もすぐに決まり、今1年以上続いている。

ここで落ち着くかと思いきや、息子の強迫性障害が悪化。
その波を追うように私もうつの闇に沈み始める。
東京に来てから約2年、無理して頑張り過ぎたのかもしれない。
今年の前半はほぼ記憶もないほどうつだった。
仕事も休みがちになり、止むを得ず障害をオープンに。
(それでも雇い続けてくれていることには感謝です)

そして中3になった息子は、最近抑うつが酷くなっている。
遺伝か二次障害か受験のプレッシャーかわからない(全部かも)が、薬漬けの両親を見ているため、医者も薬も断固拒否する息子。
どうしたらほんの少しでも楽になるのかいつも考えてはいるが、良い解決策が見つからず行き詰まる日々。
高校進学もどうなるかわからず頭が痛い。

それでも息子と私は今のところコミュニケーションがうまく取れていて、いろんな話ができるようにもなった。
息子と話すのは本当に楽しいし、私が怒ることもほぼない。(息子は時々キレるけど笑)

のこママ
少しずついい方向に向かっているわね!
のこバブちゃん
ばぶ!ばぶ!(ちょっと安心)

 1.8 現在~家族関係の変容と、全ての受容と肯定~

息子との関係が改善されるに従って、私の自己否定感は消滅していった。
今は、私が存在していなかったら息子は存在していないのだから、私は存在していてよかったんだ、生きていていいんだ、と思えるようになった。
さらに、今の息子を肯定することで、自分の過去も肯定できるようになった。
もしも戻ってやり直したとすれば、今の息子は絶対いないから。
今は、お互いにつらい思いをたくさんしてきたからこそ、今の私と息子がいるのだ、と全てを肯定できている。

多面体だと思っていた自己も、いつの間にか統合された。
今では逆に素でしかいられず、今までそれぞれにどう接していたのかわからなくなってしまい、戸惑うことすらある。

夫との関係も、普段離れているのでお互いにイライラすることもなく、劇的に改善した。
毎晩電話で話しているし、帰れば家族3人仲良く過ごせる。
それは、息子が成長したというのもあるし、私が必死で息子との関係を作ってきた成果でもあるし、何より夫がどれほど私と息子を大切に想ってくれているのかに私が気付けたことが大きいと思う。
そして私も夫のことを心から大切に想えるようになった。

ただ、母とは未だに断絶が続いている。私の中で、息子とバトっていた頃の母の声がトラウマ化していて、電話に出られないばかりか、留守電すら聞けないのだ。
電話がかかってくるだけで、動悸がしてパニックを起こしそうになる。(1日に何十回もかかってくることも)
ホームにも1度だけ行ったが、あまりにも精神的な消耗が激しいので、それ以降行っていない。
遅過ぎるけれども、やっと母の支配から抜け出せた、母子共依存からの脱却の一過程だと肯定的に捉えるようにしている。

何はともあれ、私は自分と、自分の病気と、それに振り回されてきた過去と、それでも死ぬまで病気とともに生きていく現在と未来を、全て受け入れ、肯定できるようになった。
これからの人生も、とても順風満帆にはいきそうにないけれど、この自分と折り合いをつけながら、前を向いて生きていこうと思う。

そして、私が今此処まで生き永らえてこれたのは夫と息子のおかげだということを常に感謝しつつ、今もこれからも、離れて暮らしていても、いつでもお互いを想い合える家族でありたい。

のこ太
”母強し”とはいうけど、きっとそうなんだよね!
のこ美ちゃん
少しずつ、のこのこ進んでいきましょうね!

2. どんな精神・発達障害を抱えていますか?

今の診断は、双極性障害Ⅱ型です。
ただ、症状や特徴的に、非定型うつ病に近い点もあるそうです。

 2.1. いつから精神・発達障害を抱えているのか?

発症は21歳でした。当初の診断は「抑うつ状態」→「うつ病」
26歳で結婚して引っ越しのため転院した時、紹介状に「双極性障害」とあって、そこで初めてその診断を知りました。
発症から22年目になります。

 2.2. どのような症状?

現時点では、うつ7割、フラット2割、軽躁と混合が1割くらいな感じです。
軽躁や混合は不定期で、数時間或いは数日間突発で出現。
以前はもっと躁や軽躁と混合の割合が高く、フラットがほとんどないラピッドサイクラーでした。

うつの時
多い順に意欲低下、無気力、鉛様麻痺、抑うつ気分など。
何もやる気が起きないのと、頭と体が重くて痺れて動けないが主訴。
買い物に行くと何を買っていいかわからなくなり(メモを持って行っても)、なぜか食料品を買い過ぎてしまう。
過食、過眠になる。
喫煙が増える。
人とのコミュニケーションを遮断したくなる(特に電話連絡ができなくなる)。
思考回路が働かず、勉強や読書ができなくなる。
家事が重荷になる。
希死念慮は今はほとんどありません。

軽躁の時
意欲が増し過ぎて、いろんなことに手を付けたり、やれると思っていろんな仕事や役割を引き受けたりする。
電話やメールが苦にならないので、一気にいろんな人に連絡を取る。
自分がこうと思ったことは誰に何を言われようと押し通す。
遊びに行きたがり、洋服を買いまくる→散財。
性欲亢進。
不眠。
食欲が収まりダイエットや筋トレができる。

混合の時
頭は全く働いていないのにやたら動き回ったり、わけもなく泣き叫んだりする。
或いは身体は全く動けないのに思考だけ空回りして、焦り、イライラし、感情が爆発するなど、思考・感情・身体がバラバラな状態。
自傷やパニック発作に結びつくため要注意。

のこママ
いろんな状態があるから、波に気付くことも大切ね!

3. 精神・発達障害でこれまで大変だった事

子育てです。

うつで寝たきりの時はもちろん何もできないし、躁の時は自分のことしか見えない感じになってしまう。
自分のことで一杯一杯で、本当に母親らしいことは何ひとつしてあげられなかった。
息子の発達障害は、妊娠中に私が不安定過ぎたからかもとか、初期に飲んでた大量の薬のせいかもとか、幼少期にちゃんと愛情を注げなかったからかもとか考えると、罪悪感と申し訳なさで堪らなくなる。
(そういうことが原因ではないとする学説があることも承知)
「私なんかが子どもを産んではいけなかった」と何度思ったか。
息子と「死なない約束」をしてからは最大限向き合ってきたつもりだけど、何せ家族全員精神的な生きづらさがあるので、とにかく大変でした。
実際、所謂「機能不全家族」だと思うので、息子の発達と心身の不調に影響を与えていることは確かで、それが私にとって一番つらいことです。

4. 今現在どんな治療を行なっている?

薬物療法です。
かかりつけの病院は四国のままなので、2,3ヶ月に一度しか通院できていません。

あと、手帳(行動予定とできたことリストと4行日記)、Twitter、うつレコや最近はBipolarDiaryというアプリで日々の記録をつけています。(手帳やアプリの記録は診察の時主治医に見せることもあります)

のこ太
記録を見せることは言葉で伝えるよりも有効かもね!

5. わたしの日々の過ごし方

週3日、発達障害児対象の放課後デイサービスでバイトしています。
昼からなので、ついつい夜更かし→昼起きになりがち。
息子が昼夜逆転気味なので、それに振り回されることもしばしば。
なかなか生活リズムの確立ができません。

休みの日はほぼ寝てるか家事かTwitter。時々ドライブ、買い物など。

6. 今の目標

40代の目標は「自分を大切にし、自分も人も幸せにする」です。

ゆくゆくは「精神疾患×家族関係(子育て)」の繋がりを立ち上げたい。
自分が苦労した子育ては、他にも苦労している人が(数は少なくても)いるんじゃないかと思います。
双極性じゃなくても、うつや他の精神疾患の方も、それ故の苦労はなかなか人に言えないんじゃないかと思うので、精神疾患を持つ親たちのコミュニティを作りたいです。
でも小さい子がいる人は外に出にくいと思うので、オンラインで作れないかな、などなど模索中です。
私自身もまだまだ勉強しないと。

のこジィ
人生は何歳になっても勉強じゃのぅ。
のこバァ
あたしもそう思うねぇ。
のこジィ
ワシは物忘れが激しくなっておるがのぉう。ふぉっふぉ。

7. わたしにとって回復に役立ったと思う活動

社会参加です。

まず、仕事はペースメーカーになります。(やり過ぎると崩れるけど)
他に、自助会・当事者会(オンライン含む)や、電話やメールでの子ども相談や子ども会などのボランティア活動、精神疾患や発達障害・不登校・子ども支援などの勉強会に参加したり、いろんな方と交流があるとテンションが上がる(上がり過ぎることもあるけど)ので、できるだけ社会的な場に出て行きたいと思っています。

8.逆にわたしにとって病状を悪化させたと思う活動

結婚、妊娠、出産、引っ越し。笑

慣れない環境と、とにかく家に縛り付けられるのが苦手です。
社会参加がないと、特にうつと混合が酷くなる気がします。

のこ太
ライフイベントや環境の変化はトリガーになりやすいよね!

9. こんな活動しています!

個人でやっているのは
Twitter(@m_toku1019)

ブログ「LunaのWaving Life~双極性障害とともに生きる日々~」
https://ameblo.jp/luna-soutsu/
……ブログはほぼ更新できていません…(^^;)

他には、ノーチラス会や双極トーク、のこのこバーなど、他の方が主催していらっしゃる集まりに参加させていただいてます。

 

10. 繋がろう!!

まずはTwitterやZoomなどでお知り合いになったり、リアルでお会いできたりすると嬉しいです。
人見知りですが交流は好きなので、よかったらお気軽に声をかけてやってください(*^^*)

どうぞよろしくお願いいたします。

この記事の感想を聞かせてください
  • いいね (2)
  • 参考になった (2)
  • 共感 (1)
  • すごい (1)
  • 会ってみたい (1)