「32歳のスタートライン 〜この障害に生まれてよかった〜」byももたん

1. わたしの人生

幼い頃は天才と呼ばれ、将来を期待されていた女の子でした

しかし、自身が3歳半の時に自らの聴覚過敏に気付き、周りの子とは違う、と思い始めてから、だんだんと自己肯定感を失い、小学校からは見事に周囲の期待を裏切ったという形になってしまった…。

そんな人生の中で、何を見出し、何を考え、今まで生きてきたか…

綴っていきたいと思います

乳児期

1986年7月12日生まれ。とても小さく、産まれてすぐには泣かなかった為、助産師に足を叩かれてわたしは産声をあげました。

生後6ヶ月頃から寝るのが嫌だったようで、自ら頰を叩きなかなか寝なかったようです

  

※写真: 左から、7ヶ月頃、5ヶ月頃、10ヶ月頃。この頃から睡眠障害のようなものが出始めていた

食べ物の拘りがあり、癇癪を起こす、人見知りも激しい子でした

2歳4ヶ月でチェーンリングを繋げたり、2歳半で折り紙をきちんと四角に折ったりと、手先が器用な子だったのはこの頃からだったようです

  

※写真: 左から、1歳5ヶ月頃、2歳頃の2枚。父親と公園で遊んだり、ぬいぐるみが好きだった

3歳になると、数字、文字、時間、時計に興味を持ち始めました。1〜10の数字は3歳になる頃には既に読めていたとのこと。更に幾つかの平仮名も理解し、わたしの記憶では靴の中に「みぎ」「ひだり」と書いてあったのを覚えています

 

※写真: 左上から、3歳の誕生日、2歳頃、1歳5ヶ月頃。3歳の誕生日ケーキは苺のムースでした。これが好きで美味しかったのをしっかり覚えています。何となく当時のアイドルみたいな髪型…笑

 

3歳半の時、叔母が出演したとあるステージを観に行った時、上演開始のブザーに恐怖を覚えました。座り込んで動けなくなったわたしに、同い年の従姉妹が駆け寄り、これは始まりの合図なのだと告げられても動けない。ふと周りを見ると、同じくらいの年齢の子はおろか、もっと小さな子どもも平然としている…わたしは、他の子とは違うんだ、普通じゃないんだ。そう思い始めました

  

※写真: 左上から、3歳の七五三、3歳の終わり頃、4歳の誕生日、4歳頃、親戚のお姉さんと。七五三の時従姉妹の髪型が気に入って、自分も女の子らしくなりたい、と髪を伸ばす宣言をし、服も青っぽいものから一変、ピンクメインになりました

そして、その頃から母親による暴力が始まりました。殴る、蹴る、突き飛ばす、外に放り出される…これが日を重ねるごとに悪化しました

 

4歳になると、平仮名、二桁の数字は殆ど、片仮名、漢字も幾つか読めるようになり、また覚えたい欲が出始めました。リカちゃん人形に三つ編みを施したのもこの頃という母子手帳の記録があります。また記録によると、簡単な計算も出来るようになったようです

のこ太
利発な子供だったんだな!

幼稚園時代

幼稚園には体験入園を経て年中組から入園しました。体験入園の時にビーズでブレスレットを作り、それは今でも家にとってあります

※写真: 5歳の誕生日を迎えた夏。髪を母親に無理矢理ベリーショートにされてもワンピースは着ました。児童文学が大好きで、愛読してたのは松谷みよ子さんの本。平仮名、片仮名が読めれば読める本だったので、特にこの「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズは全部読み切りました

幼稚園年中組の時はとにかく多動だったなという記憶があります。上履きのまま机の上を駆け回ったり、年少組の子を突き飛ばしたり…その反面、面倒見の良い部分もあったようです。バカだと言われ、嫌われて遊びに入れてくれないと泣く他園から編入してきた子を連れて「この子はバカじゃなくて、まだ入ったばかりだから色々わからないの、だからみんなで教えてあげて」と、その子と同学年の子たちの輪に入れたというエピソードが、わたしの中では凄く強烈でした

そして、その頃からソルフェージュを独学で始め、バイオリンを習い始めました

ト音記号、ヘ音記号は既に読めたので、バイオリンを手にすると、ひたすら基礎練習を1時間も2時間も繰り返して延々と続けました。先生は「この子の将来が楽しみね!」と父親と話していました

のこ美ちゃん
すごいわ!

また、手先の器用さはやはり同年代の子からは飛び抜けていて、あやとり、折り紙の作り方の本を自分で読んで、作っていました。図の読解力は相当なものだったようです

年長組になると、幼稚園では平仮名を習い始めました。ところが、ここで問題が起きます。「さ」「ち」の区別がつかない、「ひ」を左右逆に書く。どんなに見本を見ても、上手く書けずに先生からなかなか丸を貰えない。それまで〇〇ちゃんは折り紙もあやとりも凄く上手ね、と言われて調子に乗っていたのでしょう、物凄くショックでした

その頃からいじめが始まり、男女問わず嫌がらせを受け、頭にきたわたしは、やっとの思いで書けるようになった平仮名で所謂「脅迫状」を書き、嫌がらせをしてきた男の子の道具箱にしのばせて、先生からこっ酷く叱られたこともありました。それでも何故怒られるのか?悪いのはわたしではない!と訴えることが出来ませんでした。思えばこの頃から自分の気持ちを言語化するのが困難だったように思います

6歳になると、本を読むことが日課になり、主に児童文学作家の本を読んでいました。また、当時バイオリンの先生の家に貼ってあった力士の四股名をほぼ全て読み上げ、先生を驚かせたことがあります。当時好きだった力士は、曙と小錦でした。どちらも大柄な外国人力士ですが、恐らく笑顔の魅力的な包容力のありそうなお二人に、何か憧れを抱いていたのを微かに覚えています。その頃から、何らかの癒しを求めていたのでしょう。特に、曙の癒し笑顔が大好きだったと記憶しています。曙の似顔絵まで描いていたこともありました

※写真: 6歳の誕生日。このスカートはお気に入りでした。人形をプレゼントでもらって大喜び!髪は自分で結んでいたようです

小学校低学年時代

 

※写真: 左から、小学校入学直前の春、親戚宅の仔猫を抱いて。公園で木登りをしているわたし

小学校に上がると、自分が周りの同級生とコミュニケーションが取れない事を自覚し始めます。それの最大のきっかけは、1年生の時の運動会の練習のとある一コマでした。先生が座ってと言ってもなかなか座らないクラスの子に「座りなさい!座りなさい!」と命令口調で言ったのです。同級生の子2人に「偉そうに言うな!」と言われて、最初は「はぁ?」と思いましたが、それをきっかけに段々と疎外感を感じ始めました

1年生の3学期、自分は周りの同級生と違うとはっきり感じた出来事が2つ起こりました

1つ目は、掃除の時、箒を振り回して遊んでいた子に対し「〇〇ちゃん、サボらないで掃除して!」と言ったところ、その子は突然泣き出し「サボってないもん!もう先生に言うから!」と逆ギレしててしまい、わたしは担任に叱られる羽目になりました

もう1つは、その日は生活科の授業があったのですが、わたしはその前の休憩時間に興味を持った国語の教科書に掲載されている小説を読んでいたところ、クラスの子に「〇〇ちゃん次生活の授業なのに、国語の教科書読んでる、いけないんだ〜先生に言うから!」と言われ、当時班長をつとめていたわたしは、何故かそれだけのことで「お前は班長失格だな」と担任に言われ、班長をおろされました

また、この頃、発達障害の特性か、食べ物に関してのエピソードが幾つかあります。まず、朝ご飯のパンが上手く飲み込めない。その為、パン半分に15分、1枚食べるのに30分もかかりました。更に、好きな食べやすい食べ物は物凄くはやく、しかも量もかなり食べる為、1年生の時に給食のカレーを6杯おかわりし、担任に度肝を抜かれたこともありました

2年生になると、転校生が2年生だけで9人も入った為、クラス数が3クラスに増え、異例のクラス替えが行われました。そこでクラスに1人の大柄な男の子が入ってきました。その子は勉強がとても苦手な子だったのですが、当時学年でも割と優秀成績だったわたしは、居残りをさせられて泣いているその子に、自ら付き添い、勉強を教えていたこともありました。しかし、その一方で、わたしに対するいじめ、嫌がらせが増え、わたしはだんだん病んでいくのが8歳の自分ですら、自覚するほどでした

3年生になると、思春期もあってか身体の成長が目立つようになり、それをクラスの女子に指摘されるようになったり、男子児童にも見られるようになりました。また、鬱のような症状が出て、心配した周りの大人がわたし宛にしょっちゅう電話をかけてきて「疲れてるんだよ、休まないと」と言ってきたのですが、わたしの態度は一貫して強気で「あんたに関係ないでしょ!」と怒鳴る日々が続きました。思えばこの時、もう既に二次障害を発症して随分悪化していたと思われます

家ではバイオリンの練習を嫌がるようになり、そうすると母親に殴られ蹴られることも増えました。やりたくないと言っても聞きいれて貰えないことに絶望感を覚えました

※写真: 小学校3年生、初めてのバイオリンの発表会にて。フィオッコという作曲家のアレグロという曲を弾きました

もうひとつ、エピソードがあります。夏休みの宿題の定番、読書感想文ですが、200マスの作文用紙に当時読んだ「おさるのジョージ」について書いていましたが、その本の要約から書き始め、ひとつひとつの物語内のエピソードについて、自分の思ったこと、感じたことを書き続けて、いよいよ全ての物語文に対する最後の感想を書く頃には10枚分、要するに2000文字に達しようとしていました。それを見つけた母親に「あんた、これ感想文じゃないでしょ、書き直しなさい」と言われて、書き直させられたことがありました。確かにこれは、読書感想文ではなく、まるでこの本に対するレポートのようでした。後述しますが、わたしはこれを中学1年生の読書感想文でも似たようなことをしてしまいます

一方で、音楽教諭にとある才能を見出されました。リコーダーを始めた3年生の時、課題曲を与えられ、先生の前で間違えずに演奏し終えたらその曲は合格という方針で、授業が進められたのですが、わたしがどの課題曲もクラスで1番最初に合格していた為、先生は「ハモる」という課題をわたしに特別に出しました。最初は恥ずかしかったのですが、ハモりは成功し、その後合唱を披露する際、どの曲も当時の先生曰く見事な音程の正確さで歌いこなしていたそうです。どうやらわたしに絶対音感があると自分で気付いたのもこの頃でした。今でもカラオケに行き採点機能を使えば、音程は歌う殆どの曲で90点を超えているのは、これが要因ではと思っています

のこバブちゃん
絶対音感!かっこいいバブ!

小学校高学年時代

4年生の時、クラス替えは無かったものの、担任教師が異動で変わりました。一風変わった男性教師で、それでも良い事は良い、悪い事は悪いとはっきりと口にする30代半ばの教師でした。ユーモアのある方でしたが、その教師の方針でわたしへのいじめが悪化するきっかけにもなってしまいました

※写真: 小学校4年生の頃。3年生の夏から眼鏡っ子でした

担任は「議題箱」なるものを教室内に設置し、子ども達がクラスで議題にしたい事をそこに書いて入れるようにしていたのですが、自分がいじめられていたことに嫌気がさしていたわたしは、そこに「いじめについて」と書いて二度ほど投函してしまいました。それはクラスで当然の如く取り上げられ、議題となって話し合いになりました。わたしは「誰に何をされたのか」詳細を話さなければならず、それがきっかけでいじめには拍車がかかってしまう羽目になりました

5、6年生になって、自分が「わたしは空気読めないのかな?」と思う出来事が増えました。どの会話に参加しても、嫌われたくないし変なふうに思われたくない一心で、会話を先回り先回りして言葉を発していたのですが、悉く会話失敗に終わりました。思えばこれはASDの特性だったのだと今思えます

のこパパ
当時からもがいていたんだな・・・。

学校の成績はというと、上の下くらいを常に保ってはいました。1番苦手なのは算数と体育でしたが、それでも算数は解き方を一旦覚えればテストで90点以上は当たり前、体育に関しては水泳はクラスの女子で泳ぐ速さはトップクラス、また4種目を泳げる事で走るのは遅かったけど、少し周りから一目置かれるようになったことがありました

その一方で、問題な行動が出ました。いじめられたことから、人を攻撃したいという意思が芽生え始め、図工室から錆びた釘などを持ち出しては筆箱に入れて持ち歩いていました。また、朝起きられなくなり、放送委員会の仕事に間に合わなかったりして、叱られることも増えてきました。これは中学に上がっても続きます。今思えばこれは鬱による「過眠」もあったかと思います

 

※写真: 小学校4年生の夏休み、父親の実家近くの川で、遊んでいるところ。右は小学校5年生の冬、父親の知人宅にて、グラスハープという楽器で遊んでいるところ。グラスハープはグラスに入れた水の量で音程の変わる、グラスのフチを擦って音を奏でる楽器ですが、わたしはこれに初めて触れて僅か10分で演奏の仕方をマスター。蛍の光、エーデルワイスなどを弾いていました

中学校時代(精神科にかかるまで)

中学1年生になって、生活は一変し、わたしはまず吹奏楽部に入部しました。フルートを担当して1ヶ月も経たない頃、3年生の先輩に声をかけられ、ピッコロを吹けるか?と訊ねられました。フルートと楽器の吹き方はほぼ同じな為、多分吹けます、と言ったところ、突然ピッコロを渡され「今日から合奏入って」と言われました。事実上のレギュラー入り宣告でした。1年生が入部1ヶ月も経たずにレギュラー入りする事は、この学校では前代未聞だったそうです。そのまま吹奏楽部のコンクール出場メンバーに選ばれ、8月のコンクールでは地区大会銀賞を獲りました(この学校は前年度は銅賞でした)

のこママ
勝利に貢献!かっこいいわ!!

私生活ではバイオリンをまだ続けていて、小学校6年生で既にアマチュアオーケストラにおまけで参加していたところを、この年に正式入団しました(当時のオーケストラで中学生団員は史上初)。また、合唱団にも入っていたわたしは、CD録音に参加するなど、音楽活動を積極的に行なっていました

一方、勉学では1年生の二学期から、急激に成績が落ちました。一学期ではクラスではトップに近い成績をとっていたのが、あっという間にクラスの中の下まで転落しました。勉強に集中力が無くなり、無頓着になったり、勉強に頭がついていかず、ひとつ疑問が発生する度に頭の中で思考の運動会が始まり、最終的にはフリーズすることになってしまいました。また、一学期の通知表には「1年生ながら委員会などで良く活躍したと思います。もう少し柔軟性があっても良いかと思います」と思考のかたさを指摘されていました

そして、そのかたい思考と、自身の納得のいかなさから起こした行動が、精神科に通う決定的なものとなります。所謂「自傷行為」です

二学期の終わり頃から、部活の仲の良い子に「最近人生がキツくて消えたいんだよね」と話したところ、当時スクールカウンセラーの相談室があったのですが、その子にそこに行くことを勧められました。そこに何度か通ううちに、その問題の行為の事を話すと、カウンセラーの表情が一変し、親を今度呼んできて欲しいと言われました。わたしは恐怖感を覚え、カウンセラーから親に電話をして欲しいと言いました。その夜、カウンセラーから電話がかかり、親の都合の良い日にその相談室に同行する事になりました。その日の事を断片的にですが、覚えています。テーブルに3枚の紙が並べられていて、三件の小児精神科の地図、連絡先がそれぞれ書かれていました。このどれかに大至急行くようにと、カウンセラーはいつになく厳しい表情で母親に言いました。結果、三件とも予約いっぱいで、わたしは小さなクリニックに通うことが決定しました。1年生の三学期、冷たい風の吹く中、わたしは中学入学後初めて学校を早退し、母親とそのクリニックに向かいました

最近になって調べたところ、そのクリニックの女性院長は80年代から小児自閉症の症状の緩和について、研究をされていた発達障害に関する研究の第一人者の1人であり、わたしを初診で診たその院長は、わたしを「この子は高機能自閉症(当時の呼び方)の疑いがある」と、カルテに記載していたことが、後の主治医の証言により、判明しています

中学校時代(精神科入院、そして退院後)

中学1年生の間はクリニック通院の為2回早退をしたものの、無欠席で終業式を迎えることが出来ました

クリニックに通い始めてから2ヶ月経った頃、Wisc-4という知能検査など、ひと通りの心理検査を受けました。当時の知能指数は平均を確かに大幅に上回るものでしたが、既に薬を飲み始めており、どんな事を言われたのか、なんの診断名が付いたのかは覚えていません。ただ、同時に受けた検査のひとつ、ロールシャッハテストでは、かなりの異常な結果を出したという記録は残っていたそうです

検査結果が出て即、小児精神科への入院が決定、中学2年の5月半ばから4ヶ月間、入院しました。入院中は投薬治療が主なものでしたが、頓服を含めると、実に日に50錠近くもの薬を飲まされていた記憶があります。眠前薬は飲めばすぐ意識が無くなるくらい、強い薬だったと記憶しています。診断名などについては後述しますのでそちらをご覧ください

退院後も投薬治療は続きました。入院中ほどまではいかないものの、今思えば完全に多剤処方だったと記録を見た現在の主治医も言うほどでした。学校の行き帰りに意識を無くしたまま歩いたり、授業中も意識は殆ど無い、2年生と3年生の文化祭の内容は、何をしたのか殆ど覚えていません。吹奏楽部でもレギュラーから準レギュラーに落とされ、コンクールにもその後出ることは叶いませんでした

2年生の3学期からはフリーステップというフリースクールのようなところに通い始めましたが、それでもわたしは学校に行きたいと強く訴えました。しかし、それも3年生になると殆ど叶わず。ただ修学旅行、卒業遠足は、強い意志で行く事が叶いました。また、数少ない3年生の時の記憶には、体育祭で大縄跳びがあり、わたしのクラスは60回連続で跳び、更に10回を加えて、この学校で史上最多跳躍数で優勝したことがありました

3年間、自分ですら壮絶だった、予想もしなかったと思う中学校生活は、3学期のディズニーシー開園と同時に行った卒業遠足、そして、3年間自ら「この子は3年間責任を持ってわたしが受け持ちます」と申し出て担任をつとめてくださった30代男性教師により通知表に書かれたこの言葉で締め括られました

「色々な行事に参加出来て、ほんとうに良かったと思います。3年間、よく、がんばりました」

(この部分はカフェにて執筆してましたが、ここを書く時ばかりは涙を抑えることが出来ませんでした)

のこ太
こんな素敵な言葉を送れるなんて、いい先生だな!
のこ美ちゃん
ももたんさんも頑張ったのね。偉いわ!

思春期デイケア時代

受験した高校が全て不合格だったわたしは、そのまま中学を卒業し、当時通っていた病院の思春期デイケアに通い始めました。この頃から自傷や過量服薬の回数が増え、時には意識を失いかけながら母親に顔面を拳で殴られたりしたこともありました。性交渉などの異性との身体の接触は無かったのが幸いでしたが、ストレスで切除しなかったものの胃にポリープが出来たり、過食を繰り返したり…。

中学1年生の当時は152cm42kgとかなりスレンダーだったわたしは、16歳を迎える頃には60kgを超えてしまいました。思えば過食は小学校低学年のエピソードに書いたカレーを6杯も食べて驚かせた1件から出ていたと思います。感覚過敏による食べ物の食感の不快感からなかなか食べられなかったこともありましたが、その頃から飲み物で流し込むことで食べられる事を覚え、パスタであれば3人前、焼きそばであれば4人前は飲み物で流し込むようにして胃に入れていました。当然、体重はどんどん増えていきます。ほっそりしたお人形のような真ん丸な目をした女の子だったのが、所謂巨漢の道を進んでいきました

また、15〜17歳の間に約3、4ヶ月間の入院を2度しています

そんな中、17歳の時にバイトをしたいと母に訴えては断られ、「じゃあ作業所なら良いでしょ?」と言ったところ、渋々頷いた為、2ヶ所見学した当時の作業所(現就労継続支援B型事業所)のうち1ヶ所に通うことになりました。これが誤った選択だったと10年以上経ってから思うとは知る由もありませんでした

のこ太
え?せっかく社会に出れたのに誤った選択だったの?

のこバブちゃん
気になるバブ!読み進めるバブ!

作業所時代前半〜手帳取得、あなたは統合失調症だと言われ〜

作業所に入所して、早速社会の厳しさを叩き込まれます。報連相は勿論のこと、言葉遣い、挨拶といった基本的なマナーを怒鳴られながら教え込まれましたが、そこは要領が良かったのか?または覚えるのが早かったのか、あっという間に難無くこなすようになりました。職員からも「〇〇ちゃんは頭が良いね!」「覚えるのが兎に角早い、期待の新人だ!」と言われることもしばしば。わたしは調子良く作業もこなし、順調と思われた矢先、事件が起こります

2回目の食事会の時でした。自傷の痕が見つかったのです。当時40代半ばの女性の施設長に「そんなに傷付けて死にたいのか!なら今からそこから飛び降りてみろよ!ほら!」と窓を指差して怒鳴られました。そこは焼肉屋で他の客も、作業所の利用者もいましたが、そこで初めて辱めを受けたのです。その場では我慢しましたが、その後も度々そのような言葉を浴びせられるようになります。結局18歳で4度目の入院を余儀無くされます。9ヶ月間入院したものの、その間定期的に作業所に連絡すること、後半は作業所に通いながら入院生活を送り、全く休めたとは言えない入院生活でした

のこパパ
ひどい!なんてことを言う施設長なんだ!

また、平成18年4月、19歳で精神障害者保健福祉手帳を取得しました。二級でした。その頃健康診断があり、わたしは問診票の病名のところに「統合失調症と書け。あなたは統合失調症なんだよ」と施設長に言われて、そうなんだ、と迷う事無く書きましたが、統合失調症って何だろう?というのが正直な感想でした

そうしている間に施設長からの叱責に恐怖を覚え、祖母の家に逃げ込みます。4ヶ月間祖母宅にとどまり、結局施設長の「辞めちゃうのは寂しいな…」「此処にはあなたが必要なの、戻ってきて」という懇願に負け、戻らざるを得ない状況に持っていかれました。今思えばこの言葉はDVや虐待をする人の典型的なセリフに似ていると、わたし自身ですら思います

また、施設長の知り合いの支援金で海外旅行に行こう!と誘われて韓国、グアムへと行きましたが、そこでも街中やホテルで怒鳴られる、侮辱発言をされることは変わりないままでした。それでもわたしは「これが社会なんだ、一般の人は普通なんだ」と「普通を目指すという固定概念」に縛られ、耐え続けます

のこ太
ほぼ洗脳に近い状態で、抜け出せなかったんだな・・・
のこバブちゃん
苦しいのはいやバブー!

作業所時代後半〜グループホームから出るまで〜

22歳で作業所側はグループホームを設立し、わたしは設立と同時にそこへ移り住みました。そこで待っていたのは、施設長による生活面から金銭面までの管理監督コントロール、さらに施設長の価値観から物を捨てられる日々による所謂マインドコントロールも始まりました。実家からやっと出られたと思ったら、それと同じかそれ以上とも言える恐ろしい生活が始まったと言っても過言ではありませんでした。週に一度世話人による部屋チェックが入り、何か気に入らない物があると没収、施設長のチェックのもと捨てられるか作業所の物販に回される日々。グループホームの他の利用者もあまりの拘束に世話人の1人を蹴り飛ばしたりする事案も発生しました。また、利用者の家族の集まる家族会は、施設長によるグループホームで起きた利用者の失態の曝露大会でした。曝露される度に家族会は最初は笑っていたものの、そのうち苦笑に変わるという有様でした

作業所では一旦は仕事に慣れて改善したかと思われた利用者が、次々と辞めていくという現象が起き始めました。仲の良かった利用者がどんどん辞めていく。それも体調を崩して…何かがおかしいと思い始めました。時は流れてわたしは26歳を迎えていました。そんな中、わたしはというとカフェであるこの作業所で24歳頃から利用者ながら複数の作業現場で主任をつとめていました。スケジュール確認・設定、人の配置、在庫確認、材料の注文、全てを最初はわたし1人で行っていましたが、徐々に周りの利用者が自発的に協力をしてくるようになり、ある利用者はわたしが通院してから作業所に着くとメモを渡してきて「これ、厨房の在庫全部書いておいた。あとは注文数考えるだけ」と言ってきました。しかし、普段おとなしく控えめな利用者がここまで自発的に動けたことを良いことに、施設長はわたしを更に追い詰めます。わたしは毎日のように施設長を殺してしまいたい、作業所に火をつけたい、などと思うようになります

「またゴミ袋忘れたのか!走って取って来い!走ればダイエットになるだろ、ははは(大笑い)」「わたしたちの税金であんた達は年金貰えたりこうやって生活出来るんだよ、感謝しな!」「わたしが死ねば全てゴミという言葉を知ってるか、それを心に置いて物を捨てなさい!」「カウンセリング?そんなもの受けて何になるんだろうね?その時間働きなさい!」

これは施設長がわたしに放った言葉のほんの一部です

27歳を目前にした5月終わりのある日の夜、グループホームでわたしは突然泣き崩れました。その日は週に一度のグループホームの食事会の日で、水曜日だった事を覚えています。なかなか交流室に降りてこないわたしを、1番若い世話人が訪ねてきたところ、玄関で正気を失い、虚ろな目をして座り込んでいるところを発見されました。「カレー食べよ?美味しいよ?」と差し出す手を振り払って突然大声で泣き出したわたしを、世話人はなす術もないといった表情で見つめていました。その翌週辺りだったか、わたしは実家に送られ、4ヶ月間の実家待機、実家からの通所期間を経て、面談が行われ、「もう無理でしょう」という作業指導員の男性職員からの言葉を最後に、9年4ヶ月続いた就労継続支援B型事業所への通所は幕を下ろしました

義務教育よりも長い期間、作業所、グループホームという場所に拘束され、身も心もボロボロになり、それでもそのままわたしはそれから2年半もの間、孤独な、まさに孤立無援な生活を強いられる事になります

のこ美ちゃん
苦難の連続だったのね・・・。

孤立無援な生活〜支援がない!ひとりぼっち〜

母親が2年間は家賃を出す、という条件を基に、わたしは障害基礎年金二級の収入のみで過ごし始めました。その間わたしは別の就労継続支援B型事業所に3ヶ所通っていますが、その収入と年金だけではかなり厳しい生活でした。わたしは時折登録した派遣アルバイトにて収入を得ますが、騙されてその殆どを取られたり、また2年半の生活で2回も部屋のドアにケチャップを大量にかけられるという事件に巻き込まれました。そのうちの1回目は外に置いてある洗濯機のコードをペンチのようなもので断線させられ、ブレーカーを落としたうえでの犯行という悪質なものでした

Twitterなどはその前から始めていましたが、それでも誰もいない家、支援の殆ど無い生活は苦痛でした。訪問看護を利用し始める前は1ヶ月も入浴出来なかったりもしました

家賃を出す間だけ暮らせるという約束の2年が過ぎてもなお、働くことは出来ず、当時通っていた就労継続支援B型事業所もストレスになり、全身に発疹ができて爛れ、上半身や二の腕の皮膚はあちこちずる剥けになりました。それは薬を飲んでも治らない、厄介なものでした

2年半も経とうとする頃、実家の資金が尽きたという知らせを受け、わたしはいよいよホームレスになると恐れ、賦活状態の中2月に役所の保護課に1人で向かいましたが、門前払いでした。そして限界と親に告げられた4月、病院帰りにそのまま当時とは別の不動産屋に飛び込み、事情を説明したところ、「それは大変ですね、この物件なんか良いかも知れないので問い合わせてみます」と一軒の賃貸マンションの大家さんにすぐ問い合わせてくれました。電話で事情を話していた不動産屋の職員は、話終わり電話を切ると、明るい表情でこう言いました

「大丈夫です、こちら、抑えられますよ。大家さんも承諾してくださいました」

わたしは本当ですか!と驚き、御礼を言い、そのままその日は家に帰り夕方にお世話になっていた保健福祉センターへ電話をかけ、役所への同行をお願いし、翌週には生活保護の申請をして、なんとその翌日に受理されました。また弟の貯金を借りて払おうとしていた敷金礼金など、様々な資金は全て保護費から出ることも支払いの数日前に確定、無事引っ越すことが出来ました

そして、いよいよカウンセリングが必要と判断され、当時の病院では継続的なカウンセリング、資金的問題及び方針の違いで不可能なことから、転院を決意します。これが運命の転院でした

のこ太
ようやく光が見えてきた・・・のか?

目標を持つに至るまで〜生活保護での生活〜

生活保護になり、引っ越して、転院もして、生活は一変します。その年の7月からカウンセリングを開始、まず1人目の心理士さんに担当してもらいました。心理検査も行いましたが当時のわたしは荒れ放題。待合室で待てずに処置室で待つ、点滴をしても状態が改善しない、最終的に自宅までわたしを乗せるタクシーを呼んでクリニックの1階まで車椅子で看護師さんとPSW(精神保健福祉士)のかたに運んでもらう始末。当時のPSWは後に「あの時は本当に苦しそうで心配しましたよ」と仰っていました

この頃、とある友人とSkypeで話した時のことを、わたしは生涯忘れないと思います。先に述べた作業所での事をカミングアウトしたところ、じっくりきいてくれた友人は「それ、パワハラだし虐待だよ。てか法に触れることしてるじゃん、その事業所」と言いました。一瞬何のことかわからなかったのですが、すぐに友人は何故そうなのか?を説明してくれました。わたしはそれをきいた瞬間、涙がどっと溢れ、声をあげて泣きました。今までこの疾患になった、特に解離は何故なったのか?を考えたことはあっても、自分のせいだと思い込んでいました。それが作業所・グループホームの施設長及び職員によるパワハラ、虐待によるものだった、自分だけのせいではなかったと初めて知った日でした。タオルハンカチが涙でぐしょぐしょになり、息も出来なくなるほどわたしは泣きました

その年の12月、わたしは大きなきっかけを貰う入院をします

12年ぶりに症状の悪化に伴い都内の某病院に入院したわたしは、そこで同年代の看護師、作業療法士、介護福祉士、精神保健福祉士など様々な福祉関連の職種のかたに出会います。そんなある日、介護福祉士のIさんに「中卒じゃあ何の資格も取れないし、なんかもう人生終わってる」とこぼしたところ「高認(高等学校卒業程度認定試験、昔でいう大学検定)取っちゃえばいいじゃん?」と物凄く軽いノリで言われました。「Iさんそんな簡単に言わないでよ〜」とは言ったものの、少し考え始めました

退院して翌年早々に、わたしは相性が合わないという理由で担当心理士を変えました。それが今の担当心理士のK先生です。初めてのカウンセリングでK先生にわたしは色々な想いをぶつけました。K先生は全て受け止めてくださり、わたしは安堵したのを覚えています。そして、ある資格を目指すべく、高卒認定(高等学校卒業程度認定試験)を受ける決意を固めました。とはいえ、中学を半分も行ってないわたしは中学の範囲はほぼわからず、小学校の勉強から始めなければなりません。参考書をいただいたり、Skypeなどで勉強を重ね、夏の第1回目の試験で全8科目中6科目合格、英語数学を落としてしまいました

そして、9月に成人してから2度目の入院を経て、2回目の試験で残りの2科目を無事合格し、全科目合格となり、正式に高等学校卒業程度認定試験合格者として、12月に合格証書が届きました

それまでの間、勉強をしながら様々な有資格者のかたとお話しました。そこで全てを踏まえた上で、ふたつの資格を目指すことになり、通信制大学受験及び大学院を目指して、現在奮闘しています

人生で初めて自分の意思で持てた明確な目標。これには心理士のK先生のみならず、入院した病院のPSWも本当に喜んでくれました。K先生は涙を浮かべてまで「本当に頑張ってるね」と喜んでくれ、当時の担当PSWのMさんもわたしが書いた入学用の小論文を読み「完璧に書きあげてきましたね」と満面の笑み。Mさんはその後今年10月の面談を最後に退職されましたが、その時「卒業ですね」と仰ってくださったのが印象的でした

こんなに素敵な人に恵まれた今を、大切にして、生きていきたいと思いながら、日々を過ごしています

のこママ
運命が動き出した感じね!応援してるわ!!
のこ美ちゃん
無理せず頑張ってね

2. どんな精神・発達障害を抱えていますか?

 2.1. いつから精神・発達障害を抱えているのか?

先天性の広汎性発達障害と、後天性の解離転換性障害(かいりてんかんせいしょうがい)の診断済みです。ASD黒寄りのグレー、ADHDは多動・衝動性、不注意ともにグレーでした。また、心理士によりHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)、AC(アダルト・チルドレン)の傾向も強いと言われています

診断に至る経緯は中学2年で「神経衰弱(しんけいすいじゃく、現在でいう抑鬱状態)」、17歳の時に「統合失調症」という診断名が下されていたことを知りました。20歳で自分が統合失調症であることに違和感を感じ始め、25歳で実は発達障害の傾向があると当時の主治医に告げられます(当時waisでは発達障害の兆候は認められたものの、傾向であり決定的な診断は下されませんでした)。27歳で当時の主治医に「解離症状」を認められるとされ、30歳で現在の主治医の元でひと通りの心理検査を受けたところ、現在の診断名に至りました。また、同時に統合失調症は誤診であったことが判明しました。クリニックで最初に「この子は高機能自閉症の疑いがある」と言われて17年が経ち、ようやく診断名も落ち着き一区切りつきました。

(2019年春〜夏にかけて、大学入学前にもう一度検査を受け、適性をみるとともに診断を再確認する予定です)

 2.2. どのような症状?

広汎性発達障害に関しては、強い拘り、認知の歪みなど、自閉スペクトラム症特有の症状が強いとされています。また、積極奇異型であることも明らかになっています

解離転換性障害に関しては、解離障壁(かいりしょうへき、人格同士の壁、所謂記憶の壁であり、これを有すると人格同士の記憶を共有出来ない為、解離の中でも最重度でもあると言われる解離性同一性障害にもなる場合がある)を持たない人格を複数認め、自覚症状としては「常に解離している状態」です。どのような状態かというと、人や場面毎それぞれに「異なる自分」を出し、それは声質、声色、話し方、仕草、態度など多岐にわたり変化が生じます。しかし、それは場面場面に自分を合わせる為の「自分を守る為の術」「自己コントロール」に過ぎず、意図的にでもなくほぼ無意識下において行われる行動です。演技と言われたり構って欲しさにわざとやっている、と思われがちですが、ほぼ全て無意識下における至って自然な行動となります。こういった解離のメカニズムは言葉ひとつでは計り知れず、またなかなか理解され難いもので、尚且つひとりひとり症状も違えば、健常な人間においても生じるものまで幅広い為、こればかりはわたし1人を知ったからといって全てを理解出来るものではないと存じていただければ幸いです

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)、に関しては、よく「人の心が読める」と言われたりしているエンパスと同じ扱いをされがちですが、それは誤解で、わたしははっきり言って、読めません。HSPは所謂「過敏過ぎる人」です。怒られてる人を見て自分がさも怒られているような錯覚に陥り、何故か関係の無い自分がその場をおさめようとしたりしてしまう行動は割と典型的な例ですが、わたしはその他にもその場に固まってしまい、そこから解離を起こしたりすることもあります。それはAC(アダルト・チルドレン)も関係してるのではと思ったりもします。過敏過ぎるが故に、考えが先回りし過ぎてしまったり、またひとつの物事に関して複数の関連性のあるものが同時に頭に浮かんだりもします。思考の多動とも思われがちですが、そこで思考の多動と異なる点は、「関連性があるものが複数浮かぶこと」です。一般的に言われる思考の多動では、あれもこれも!と「関連性の無いものも同時に複数浮かぶこと」が多いです。もしかしたらそこがわたしがADHDと診断されなかった最大の理由かも知れません

3. 精神・発達障害でこれまで大変だった事

発達障害に関しては、正直言って発達障害そのもので今物凄く大変!!!というものは思い浮かばないんですが、ひとつあるとすれば、同い年のかたと悉く話せない、話が合わないということですね。同い年の同級生が子どもっぽく見えてしまう。これは理由はほぼ明確になってきていますが、判断材料は来年受ける予定の検査までおあずけなので、現時点では伏せさせていただきます

解離転換性障害で大変だったことは、とにかく演技と思われたりしてしまうことと説明が難しいことは勿論、構って欲しくて意図的にやってると思われたりもします。また、解離してしまうと物凄く疲れてしまう為、自己コントロールが非常に難しいこと。幼児退行など人格交代のような状態になった時、周囲に負担をかけてしまうのも、自分に負担になるのでかなりつらいところです

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)で大変なことは、とにかく脳が常に過敏な為、様々な情報が常に錯綜し、情報過多になりやすいところです。ただでさえ情報処理能力が通常より劣っているのに、それに対して入ってくる情報量が比例しません。ASDの感覚過敏にプラスしてそういうものがある為、脳内の情報処理が追いつかない。ただ、これは訓練により、情報の取捨選択をすることで、ある程度解決しそうな気もします。これから日々訓練・治療をしていきたいところです

4. 今現在どんな治療を行なっている?

メインは投薬治療とカウンセリングです。現在では週に一度、臨床心理士の先生とのカウンセリングが行われています。主に暴露療法をメインとし、自分のことを話していく中で問題提起や原因を心理士と模索し、自らの言葉で感情表現をしたり、自己表現していく中で、問題の根源や根底にあるものを見出したうえで、問題解決に自らを導き、答えを自らの言葉で発していく方法です

投薬療法に関しては個々により考え方、捉え方も異なり、またひとつの薬でもひとりひとり効果が異なることから、此処では詳細を伏せさせていただきますことをご了承願います

5. わたしの日々の過ごし方

日中は出来る限り起きるようにしています。また、どんなに調子が悪くても週に2回はシャワーを浴びる、これが入浴に関しては限界です。洗濯は週に2回は回し、料理などもだいぶ出来るようになってきました。ところが食べるものは似たり寄ったりで、なかなかレパートリーは増えないですね

週に一度は通院の為出かける他、当事者会及び地元のコミュニティカフェにそれぞれ1ヶ月に一度ほど、参加しています。またハンドメイド作品を作っている為、ハンドメイド資材店に行ったり、技術取得と向上の為、ワークショップに参加し、そのまま仲間と食事などに出かけることも増えてきました

また、週に一度、訪問看護を受けています。看護師によるバイタル・服薬チェックや、現在の生活状況などの報告を行っています

その他は部屋でハンドメイド作業をしたり、ネットサーフィン、ツイキャスライブ配信を行っています

6. 今の目標

まずは自分をコントロール出来るようになること。人との横の繋がりを広げることですね。勿論体調管理やメンタルの安定につとめることも大切にしています

将来的な目標としては、大学及び大学院に進学し、ふたつの国家資格を取得して、福祉施設や医療機関などに従事することを目標としております。まずは大学を卒業してひとつめの国家資格を取得するところから始めたいです

7. わたしにとって回復に役立ったと思う活動

カウンセリングはもとより、人と会うこと、話すこと、遊ぶことも重要視しています。人と会うと疲れるという人もいますが、外に出ることでわたしは心地良い疲労感を感じることが出来、またコミュニケーションもはかれる為、非常に重要だと思っています

ヒトカラに行くこと、ハンドメイド作品を作ってイベントに出たり、委託販売をすることも、ひとつの経験や体験ですし、様々な人と話すことは情報共有にも繋がりますし、人生経験としても非常に有意義な時間として、わたしは捉えています

 

※写真: 左、3年ほど前、車椅子の歌姫、だっこちゃんこと、朝霧裕さんと。右、今年10月、応援ソングライターのゆうかちゃんと。人と会うことが、わたしの生きる活力となっています

8.逆にわたしにとって病状を悪化させたと思う活動

自分に合わないことをすること、自分に合わない場所に身を置くこと。これに尽きますね

わたし自身の場合は就労継続支援B型事業所にいたことは全てが悪ではありません。勿論良いこともありましたが、あんなに長く居る必要あったかな?と思います

9. こんな活動しています!

現在はTwitter、ツイキャスライブ配信などのネットでのコミュニティの他、都内の当事者会、コミュニティカフェの参加、そして来年辺りから地元の地域で地域の人や専門家の方が当事者に話をきく機会を作ろうとしている為、是非お話をしてほしいと福祉関連の現場に出ている友人からお話をいただいたので、その機会を活かせたらと思っています

また、ハンドメイド作家として屋号「Happy 風林堂」で作家活動もしております

以下、アカウントなどの情報です

Twitter及びツイキャス: @momo_0712_pdd(メインアカウント)、@Atoippo77(ハンドメイド作品アカウント)

ハンドメイド委託販売店: MIKKE(みっけ、R-83の箱)、日向箱(ひなたぼっこ、SL-503の箱)

はてなブログ: 「ももたんの発達と解離ライフ」 momotan0712.hatenablog.com

 

 

※写真: 今年作ったハンドメイド作品のメインの作品です

10. 繋がろう!! 〜メッセージ〜

わたしは、この障害に生まれて、またこの障害を背負って、つらいこと、苦しいこともありますし、今も日々葛藤の毎日ですが、それでも今、自分はそれで良かったと思っています。何故なら、この障害や特性を持ってなければ出会えなかった人、持てなかった目標、見えなかった世界があると思うからです

わたしがもし健常で普通の人間だったら、今頃仕事や結婚をして家庭を持てたとしても、ただ日々を淡々と何も無く過ごしていた味気ない人生だったと思います

人は孤独な弱い生き物です。故に人と繋がりを持たなければ、一生孤独です。この障害に生まれ、この障害を抱えて生きているからこそ出会えた宝物たちを、わたしは孤独と共に、それもわたしなんだと抱えて生きていけるような、そんな人生を送りたいと思っております

最後まで御拝読ありがとうございました

ももたん

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