「あっぱれ!そううつ日和~NO天気、土砂降り晴れ女。どんな人生にもYES!を~」by6月のJ子

みなさんはじめまして、こんにちは!6月のJ子です!ちょっと長ぁ~いライフスタイルページになりますが、どうぞお付き合い、よろしくお願いします。

写真がなかったので、お絵かきしてみました!長文が苦手な方は絵に言葉を添えたので、流し見程度で楽しんでいただ抱けたらうれしいです!

のこ太
J子さんよろしくね‼
のこ美ちゃん
かわいい絵ね❤
絵だけで大まかな流れがわかるようになってるわよ

1. わたしの人生

1.1. 生まれたてのJ子

・カラ梅雨に潤う子。ハッピーバースデー、ジューン!!

麗しきネックレス(それはへその緒!)を首に巻き、逆子でオギャアとも泣かず静かにこの世に生まれ出て、オシリを叩かれ、やっと泣いて誕生を祝われたのは今から三十云々年前、雨の降らないあまのじゃくなカラッカラのカラ梅雨の、6月10日のことでした。親のシャレなのか何なのか、私の名前はうるおう子と書いて潤子。6月は英語でなんて言う?そう、ジューン。ヘイ!リピートアフターミー!ジューン!私は潤子。これが6月のJ子の誕生です。

のこバブちゃん
生まれた時からずいぶんロックなベイビーバブね♫
波乱の人生の幕開けバブ‼
のこパパ
Juneと潤(じゅん)をかけてるのか
良いセンスじゃないかハッハッハ

1.2. 幼少期のJ子

・バッタハンター、大人がハント!…お友達は蟻さんだよ。(小声で)

「今日も潤子ちゃんがいません!今日は幼稚園バスに乗りましたか?」この電話は何度、幼稚園から親にいっただろうか。幼少期の私はとにかく一人でバッタばかりを捕まえている子どもでした。毎日毎日バッタばっかり。友達とも遊ばずとにかくバッタ。小さいのから大きいのまで。ツチバッタ、ヒシバッタ、トノサマバッタ…!私はバッタを捕ることにしか興味がなく、人気のない草むらに脇目の降らずに潜り込み、バッタを追い、そしていつも大人たちに探されている子でした(大人→私→バッタ!)。

のこ助さん
バッタハンター潤子恐るべし‼
俺も虫捕り少年だったがここまでじゃなかったぜ‼

本人は全く困っていないのに周りからしたら迷子。今も変わらずそうかもしれません。私は迷子、人生は迷路、でも、それに困ってはいない。これは生まれつきの私らしさかもしれません。迷路ゲームも遊び方次第。ゲームと思えば人生は楽しい。困ったことといえば私はこのころからかなりの癇癪持ちで、いったん泣くと怒り悲しみの感情がおさまらず、自分でも困り、みんなを困らせる子どもだったのを覚えています。今も困ってるのか困っていないのか、能天気で危機感がないのか、それでも問題は問題で、光か闇か、躁か鬱か、そんな矛盾(ム、ジューン)だらけの私のライフスタイルページ、どうぞお付き合いください。ム、ジューン…(言いたいだけ。)

のこバァ
自由奔放な子だったのねぇ
迷ったり遠回りしたりする人生も素敵なものよ

1.3. 小学生のJ子

・ウサギに釣られず、神を想う。吹き溜まりの子どもたち

小学生のJ子は特に勉強ができるわけでもなく、とくに映えることのない子どもでした。高学年になると反抗期がひどく、吹き溜まりのように集まった友達と授業をボイコットしたり、先生をいじめたり、本当に憎たらしい子どもだったと思います。

のこ美ちゃん
先生をいじめる⁉
かなりやんちゃだったみたいね💦

親が泣きながら「かわいいウサギを飼ってあげるからもういい子にして!」と私に本当にかわいいウサギを買い与える始末。それでも何がそうさせるのか、私の心にはいつも恐れと怒り、悲しみが同時にあり「この世には神も仏もない。」と心底むなしく、初詣に買ってもらったお守りをこんなのただの布袋…(ホテイじゃないよヌノブクロ)と、バラバラにして、ごみ箱に捨てるような陰気くさい事をしたのを強く覚えています。かわいいウサギは効果なし。確かにかわいかったけれども。

のこママ
ウサギのかわいさでも癒せないなんて…
自分でも理由がわからないというのが辛いわね💧

嫌だったことを思い出せば、大人たちの言葉「あなたはみっともない、はずかしい、赤ちゃんみたい、そんな常識もわからないの、そんなんじゃ大人になれない、早く大人になって、どうせ子どもの考えることだから」という言葉の数々。私はそういった負の呪文にかかって、人も仏も神さえも信じることさえできない子どもでした。すがるものさえない空虚に泣いたのは小5の冬のことです。子どもってつらいよね。子どもだってつらい、子どもだからこそいっぱい思ってることあるよね。と、こんな子ども時代を送った私は、子どもを侮るな!と強く言いたいです。子どもは朝顔の蔓のように育つ。縦に伸びても横に貼っても時期が来たら花は咲いてしまう。あっという間に大人になる。まっすぐ伸びるためにはやっぱり支柱があるのが望ましい。安心して寄り添っていられる大人、まっすぐ上へと蔓を伸ばせる支柱があったなら、私はねじれた大人を経験しなくてよかったのかもしれないなと思います。それでもいまこうやってねじれをまっすぐに戻していく過程も、また朝顔の成長記録です。まだまだ蔓は伸び花は咲き、朝顔は育ちます。大人になった今の私は自分の成長が楽しみです。

のこジィ
子供のころは自分を理解して支えてくれる大人と出会えなかったんじゃのぅ
じゃがその経験があったからこそ今の心境に至るわけじゃな‼

1.4. 中学生のJ子

・女子中あるある?七十肩(^v^)は、いろんな意味で腕まで痛めがち?この頃から発病か…

今日の友は明日の敵。敵も味方もあったもので無い、いじめのサイクル。私もその渦中の人で、加害者であり被害者であり、誰もが悪く、誰も責めようもない。大人たちは真っ当な言葉と視線を鋭い球のようにバシバシ投げかけて(この時の私は優しい言葉を受けられるミットを持っていなかったからかもしれないが)、言いようのない過酷な人間関係の渦の中で、心と体に異様さを自覚し始めたのはこの頃です。

のこ太
思春期真っ只中でのいじめサバイバル
相当なストレスだっただろうね💧

はじめは原因不明の腕や肩、背中、頭、首と、体のいたるところに痛みが現れました。これはいったいなんだろう。レントゲンをとってもCTをとってもMRIをとっても、原因はわからない。重たく締め付けられるようで、ピリピリともする妙な、息の詰まるほどの体の痛みが続く。しかし痛みの訴えは空しくは私の嘘や戯言のように捉えられ「こんなにお金をかけて病院に行ってるのに何で治らないの?」それが大人たちの私に対する愛情表現で、医師の診断では「んー、四十、いや五十?、…もはや七十肩ですね!(^v^)にっこり♪」とのことで、え!、肩って何十まであるんですか(笑)???、しかも(^v^)にっこり♪と言う…!?、と私はその時少し笑ってしまったのですが、つまり私は全身緊張痛による痛みをこの頃味わっていたのです。

のこ蔵さん
十代で七十肩ですと⁉
身体が痛むほどとはとても辛かったでしょうなぁ

過酷な人間関係の中で体をこわばらせ、常に緊張状態。急に元気になって空気を読まずはしゃぎ話し続けたり、我に返り、急にひどく落ち込んだりを自覚するようになったのもこの頃です。そして急に怒ったり、泣きだしたりする。大人たちは私の不調の都合でいつも「申し訳ない、申し訳ない…」と言い合っていました。私の気持ちは置いてけ堀。そうか私は「申し訳ない子」なのか、と私は溜め込んだ憤りを自覚しないままに「こんな私で申し訳ない」「ごめんなさい、ごめんなさい…」と自分をいつも責めていました。そして困りごとはやはり癇癪。私は急な怒りの勢いにまかせてシャーペンで自分の腕を刺してしまったことがあります。(今思えば初のテロ)その時の教師の言葉は吹雪のような冷たい言葉。「そうすれば人のせいにできるもんね…」と。私の人生で忘れられない言葉ランキングではゴールドメダル級です。吹雪とメダルで…って!、冬季オリンピック開催地ですか?ここ…!ピョンチャン?ソチなの?ナガノなの!?極寒…。それが私の中学時代です。

のこママ
小学生の時以上に大人に見放されてしまったようね💧
でもこの後もっとひどい氷河期を迎えるみたいよ…

1.5. 高校生のJ子

・どん底。このつらさがあったから、「どんな今」も「あの過去」よりはハッピー♪

塾じゃなく、整体に通う女子高生。緊張痛はなおも続き、私は親に連れられ整体に通い始めました。何度か通ううちに、やんわりと「心療内科」を受診してみては…と。そうか、この世界にはそういうものがあるのかと、知ったのはこの時。一応紹介された病院に行ってはみたものの、はじめの生活歴などを伝えるカウンセリングで挫折。人に心を開かなくなっていた私は、周りの目や声を気にし、自分の気持ちさえもわからず(無意識に気持ちを押しこめ)、不快感と体の痛みだけを感じ黙りこむ、言葉を話せない子になっていました。家族のことを話せば親の機嫌を損ねると思いそれを恐れ、通院はすぐに辞めてしまいました。

のこ太
初めて精神科にいった時はなかなか上手く話せないよね
でも通院をやめてしまったのは良くなかったかも…

それから2ヶ月もたたない高2の夏休み前、家庭にも居場所のない私は学校での人間関係にも耐え切れず、教室にて感情が崩壊し、泣きじゃくり腕を切り刻み自殺を図るという暴挙に出てしまいました。

のこバブちゃん
バブゥ

テロです!!自爆の。最悪な生徒。17才は17針程度のキズでは死ねない!この時はじめて私は親に言葉で「つらい!」と怒鳴ったのを鮮明に覚えています。

のこバブちゃん
生きてて良かったバブ‼
そこまで追い詰められていたなんて辛かったバブね

それから大きな病院の精神科を学校に勧められ、カウンセリングにも通うことになりました。(ここで初めて診断名がついた。それは「躁うつ病」。今でいう双極性障害。時代を感じる。)それでもやっぱりうまく伝えられないのは同じ。希死念慮を伝えれば「じゃあ、お母さんにずっといっしょにいてもらえるように言いましょう」と。地獄だ。母の監視…一番の地獄だ。結局、医師に自分の思いを伝えることもできず、通院を止めてしまいました。カウンセリングも母とカウンセラーがもめて数回行ってそれきり。ああ…地獄。

のこパパ
どんなに通院してカウンセリングをうけても
家庭環境が変わらなければどうにもならないよなぁ

私はこの頃ひどいうつ状態になり、寝たきりの状態が続いていました。夕方仕事から母が帰ってくる時間になると目が覚めてしまう。そしてそれが恐ろしく、目が覚めるとずっと涙が止まらない。母の階段をのぼる足音。私の部屋の扉をバン!と開ける音。ハァ……と、声かけはなくつかれる深く大きなため息。全てが恐怖でした。「どん底」。死にたかった。2階建の家なのに飛び降りて死にたかった。寒い夜は凍死できないかと外にしゃがみ込んだりもした。夜中に包丁を持ってリビングをうろうろして、どうにもできず部屋に戻った。ニュースで子どもが親を殺害?どうしてそんなことが…、という気持ちではなく、私には親でさえも人を殺したいほど憎む気持ちがよくわかってしまった。

のこママ
一番支えになって欲しい家族が一番のストレスの原因になってたのね
ここまで追い込まれれば誰だってそんなことも思ってしまうわよ

この時の私は自分でも他者でも、逃げ道は死しかないと、そんな想像力しか持てていなかった。人は経験からしか想像ができない。この時の私には圧倒的に心地よさを想像する経験が足りなかったのだと今は思います。この後の人生だって、そこそこにつらい経験はあったけれど、この時に勝るどん底はありません。私はこの時「経験不足による想像力のなさが生むどん底」を経験したことによって、経験すれば、長生きをすれば、今はどん底で無くなる、ということを学んだのです。経験を増やせばいいのだ、「長生きしよう」そう思えるようになったのは、このどん底の10年も後のことです。今も変わらず思うのはこのどん底があったからこそ、「どんな困りごともあの時よりはまし」、と思えること。むしろこの思いっきりのどん底がなければ私は、そこそこの底をずーーー…っと、つらいと思って苦しんでいたかもしれません。私の陽気の源はどん底です。明るくいられるのは闇を知っているからです。今幸せなのは、不幸せだった過去のお陰なのです。未来は次々今になる。その今はやっぱりあのどん底のお陰で幸せで、すると、未来はやっぱり幸せです。(そして今は、私が思うのは、決して親だけが悪いわけではないということ。親にも親がいる。その連鎖。そしてそれぞれに経験が違い、想像できることが違うということ。)

のこバァ
暗い経験をのりこえたから明るくなれる
普通の人ではできない素晴らしいことだわぁ✨

1.6. 20代のJ子

・幸せに出会う、受け容れる。ゆっくりと、愛されることに慣れていく。

大学受験は早々に諦めたが上京したのは地元にはいたくなかったため。専門学校に進学したがやはり体調と情緒の不安定さを期に中退。それでも死しか想像できなかった地元には帰りたくなかった当時の私は、親の援助も断り、学もなければ健康でもない私は私なりに自分でできることからと、近くで働けるコンビニなどのアルバイトを掛け持ちして生計を立てていました。

のこパパ
おぉ‼思い切った決断をしたなぁ
でも家を出ることでストレスから解放されたんだな

「食べるために働くのか、働くために食べるのか…禅問答。」その問いがいつも頭の中にあり、自転車をこぎながら職場まで往復する毎日。相変わらずむなしさやさみしさ、突発的な怒りっぽさを抱えて、いつまで続くかわからない禅問答のサイクルを回すだけの日々。それでも私は少しづつ幸せになる経験を積んでいました。それだけ長生きしてきたのです。私は当時付き合っていた彼氏の実家によく遊びに行くことがありました。都内の公共団地。シングルマザーで相対的にいえば金銭的に豊かではない家庭だったでしょう。それでも彼の母は、私が過呼吸を起こすと背中をなでてくれました。私はそれまで「こんな優しさが世の中にあるとは知らなかった!人は背中をさすられるだけでも楽になれるんだ」と、その時初めて知りました。衝撃でした。20才も過ぎてのことです。

のこママ
やっと人の優しさに触れることができたのね✨
ここまで生きててよかったわ

どうやら世の中にはまだ私の知らない幸せがありそうだ、と思うようにもなり、そして、私も背中をさすれる優しい人になろう、と思うようにもなりました。私はこういった「当たり前のようで当たり前になかった幸せ」を、また「愛情を受け取るという経験」を、少しづつ少しづつ、こんな幸せや愛情があってもいいのかと、戸惑いながらも重ねていったのです。もちろん涙の経験も、同じだけ重ねながら。この頃の私はたまに心療内科に駆け込むものの、やはり症状をうまく伝えられず、継続して受診することはありませんでした。

・貧困女子、時を止めるな!いつも生きてる実感を!私は長生きする、そう決めた。

一人暮らしも7年目を迎えた時、専門学校の時の友達から連絡がありました。「今入院してて、精神病棟から抜け出してきた、泊めてもらえないかな」。職場から帰ると彼女はもうすでに私のアパートまで来ていました。会うのは6年ぶりです。事情を聴き一晩泊めることにしましたが、彼女は錯乱、というより思考停止状態。「どうしよう、死にたい、苦しい」としか言えなくなってしまったのです。当時の私は時給で働いているパートタイマー。貧しくて余裕がない。それでも仕事を休み、彼女を何とか彼女の実家まで連れて行き、一緒に病院にも付き添いました。都心から3時間近く乗りつぎ乗りつぎ、私も苦しい!と思いながらも、電車の中で、彼女の脇で、悲しみと嫌気と湧き上がる憤りに涙をこらえていたのを覚えています。

のこ美ちゃん
久しぶりの再会♫…なんて喜べる状況じゃなかったみたいね💧
自分も苦しいのにちゃんとサポートしてあげたのね

申し訳ないとは思いましたが、私も余裕がなく、彼女とは縁を切ることにしました。私の体調がもたなくなってしまったからです。その後もひっきりなしに来る電話とメール。ケータイと共に私は震えていました!「死にたい苦しいどうしよう…」毎日それだけの言葉の羅列。もう私には何もかけられる言葉はない。ごめんなさい。彼女はその時実家暮らしのシングルマザーでしたが、さいごには「あなたは一人身だからいいわよね」と僻まれてしまう…。彼女と再開して縁を切るまでの1ヶ月間、なぜか私は週4程度で金縛りにあうという経験をしました。(もはやバイト?夜勤の?)はじめは怖く、2週目には面倒くさく、3週目には「はい来ました、いつものやーつ!」と余裕になって、4週目には「金縛りで賃金発生しないかな…」と思うようになっていました。といいつつも、私も彼女の波にのまれ、眠れていないためもあって、心も体も弱ってしまいました。休みがちになった仕事を辞めたりもしました。

のこ太
自分も障害があって辛さがわかる分
最後まで支えてあげられないというのが辛いね💧
のこ助さん
でも無理して自分まで体調崩しちゃしょうがないもんなぁ
十分がんばったと思うぜ❓

この時学んだことは、人助けは自分を助けてからしかできないということです。私には彼女を助けられる力、お金も時間も健康も、全て余裕がなかった。自分さえも助けられていなかったのだから。私はその時に、人を幸せにするよりまず自分を幸せにしなきゃいけないと、強く思うようになりました。だから今は、わがままでも、私は私の幸せをいつも一番に思っています。そしていつかの人助けのために、今は目いっぱい自分を幸せにしたいと思っています。

のこバブちゃん
そうバブ‼
まずはなにより自分の幸せが大事バブよ♫

また、その時あった彼女はまるで生きているのに、生きていないようで、時が止まってしまっているようでした。逆を言えば、生きていないのに生きている、オバケのような感じ。私は彼女にあって「私は生きているうちは、生きているように生きていたい!時を止めたくない!」と強く思うようになりました。それはよく言われる「生きている実感」というものかもしれません。そしてやっとここでついに、「きっと長生きはいいことだ!時を止めず、長生きしよう!」と、思うようになったのです。あのどん底のちょうど10年後のことです。10年間良く生き延びました!えらいぞ私!そして学ばせてくれたあの時の友達には、遠くからありがとうと、そっと思っています。

のこジィ
長生きすれば良いことも悪いこともあるが
長生きした方が良いにきまっとる‼
その分いろんな学びがあるからのぅ

・20代も後半戦!怒涛の日々!激躁でホームレスからのエバンジェリスト!!からの…

そしてここからが私の激躁の始まりです。年は27才。私はまだ見ぬ世界を見るんだと、恥は若いうちにかいておけと、当時知ったSNSのマッチングサービスで、次々に人に出会い始めました。自ら出会いに行ったのです。子どもの頃は人に興味がなく、バッタばかりを追いかけていたこの私が、まったく人に心を開くこともなく、自分の気持ちを伝えられなかったあのどん底にいた私が、初めて人に興味を持ち、社会ともっとつながりたい!と思った瞬間です。挨拶は「私は世間知らずなので、私の知らない社会を教えてください」です。27才にもなってです。でも私はそれでいいと思っていました。今も思っています。いつだってそれぞれのタイミングで、学びたいことを学び、挑戦すればいいと思っています。きっとあるはずの未だ見ぬ幸せ。それと世の中を知るために、とにかく明るく!、人に出会いまくりました。自分の闇を見せない術や雑談力、間のとり方や沈黙を恐れないこと。ひるまず自分らしく砕けていられること。誰でもウェルカムどんと来い!で、たくさんの人に会い、一人一人に、対話の術を身を持って学ばせてもらい、それぞれの視点から見えている世の中を教えてもらいました。

のこ助さん
あのバッタハンターが随分成長したな👍
のこ蔵さん
コミュニケーションを実践しながら学んでいったんですな‼
すごいことですぞ‼

この時の私は人を選ばず誰にでも笑顔で接する、すごく愛嬌のあるいい子?だったと思います。あの憎たらしい小5の私からは想像もつかない程に!私は案外人見知りでもなく、人が苦手じゃないということに気がついたのもこの頃の経験のおかげです。休みの日や、仕事終わり、1日1人、多くて3人、その時の私はとにかくパワフルで、人に会うからと服にもお金をかけて、まさに躁状態!怖いもの知らず。私は今から輝くのだ!と毎日、人と話すのが楽しくてしかたがない日々でした。しかしやっぱり躁状態、困ると言えばそうです躁なんですよね…。私はいつのまにか借金を抱え、アパートでは近隣トラブルを起こし、なんとホームレスになってしまいました!しかも、職まで失った…!はじめて警察署にお泊まりもしました。それは忘れもしない2013年夏のこと。

のこ太
ホ、ホームレス⁉
だんだん躁の怖い面が出てきちゃったみたいだね💦

失う時は一瞬です。全てがキラキラ楽しい半面、カッとなると手がつけられなくなる暴れ者。私の躁は陽気に歓喜し、破壊と喪失を生みだします。絶望、…かといえばそうでもなく、私はその頃には母とケンカをできるまで自己主張ができるようになっており、地元に帰るくらいならホームレスの方がましだ!と、強気に出て、結果ホームレスを選んだのです。私は子供のころから無人島でサバイバルをするのが夢で、なぜか一人なら生き延びられると、おかしな自信がありました。学校などの共同生活では死さえ願うのに。考えてみれば都会でホームレスも一人きりのサバイバルのようなものだと、その時はなんだか夢がかなったような気さえして、ワクワクしていました。

のこパパ
すごい
動揺するどころか楽しんでる…💧

ただし、これも躁のなせる技なのだと思います。ここで私が一番学んだことは、捨てる神あれば拾う神ありということです。不動産屋と大家と雇い主には捨てられました。でも、SNSで出会った人に「今、実は家を失って…」と正直にいうと、賑やかな家族に、うちに泊まりなよ!と泊めてもらったり、ご飯をごちそうになったり、または居候として家政婦のように働かせてもらったり、応援の言葉をかけてもらったりと、いつのまにか、発信すれば返してもらえる、という人とのつながりを得ていたのです。SNSの時代さまさまです。私はいい時代に生まれた!!そのサービス内では年間100人以上の人と出会い、エバンジェリストの称号までもらいました。ホームレスにもかかわらず!

のこジィ
え、えすえぬえす❓えばんじぇりすと❓
なんのこっちゃわからんが便利な世の中になったんじゃのぅ

家と仕事はというと、これはさすがに早くどうにかしなければと、ある社会福祉法人が行っていたもので、介護の資格を取りながら一時的に家を提供してくれるサービスがあり、それを受けることにしました。たまたま役所で得たチラシを頼りに。躁の私は人への愛しさが増します。それが良いのか悪いのか、私はいつか背中をさすれる優しい人になりたいというあこがれもあったため、介護の仕事は即決でした。はじめての正社員。介護の仕事は楽しかった。そして順調に社福のサービスも受けホームレスを脱し、さらにはそのSNSで出会い気の合った男性とお付き合いもするようになりました。出会って1年、彼のアパートの更新の際、一緒に住もうと言う話になり、同棲生活をスタート。家はある!、職もある!、家庭に近いものもある!最高だ!!幸せの極み。全てを失ったと思った私は全てを手に入れたのだ…が、それもまた長くは続かなかった!!

のこ蔵さん
まだ何かあるのですか⁉
本当に波乱万丈ですなぁ💦

私はその間もちょくちょく情緒が不安定になり彼を困らせていました。そしてある日、カッとなって感情が爆発。彼の心はもう私から離れてしまいました。同棲を始めて半年のこと、アパートは彼の契約だったため、私が家を出ることになりました。なにより新居を探すまでの間、持ちこたえられる精神状態ではありませんでした。そのため自分のため彼のために再びホームレスを選んだのです。

今度は安いホテルやドヤに近いようなゲストハウスを渡り歩き、そこから職場に通う暮らしが1カ月程度続きます。それでもまた幸せを味わえると信じて必死でした。しかし勤め先ではガタガタな経営問題に巻き込まれまさかのゴタゴタ状態。この頃の私は錯乱することも多くなり、またもや失う時は一瞬で、失うものは重なる。住まいは何とか貯金を崩し得たものの、仕事は辞めることとなりました。新居でただ寝こむ毎日。激鬱生活の始まりです。外出することもできず食事もとれない状態。2ヶ月で10キロ痩せました。(やったぜスリム!ホームレス×鬱でほっそりダイエットに成功!とは少し喜んでいた。部屋の中を這いながら。)

のこ美ちゃん
どんなに痩せたくてもこのダイエット法は試さないわ💧

錯乱する中で、人とのつながりを失ったのも事実です。自分からも絶ちました。SNSのアカウントもすべて消してしまった。仮想的にでも自分を消したかったのです。ただ、人とのつながりを失って得たことがあります。それはこの国には一人きりになっても、困った人を救う「制度」が実はけっこうあるということ。そしてその「情報」です。私は知らなかった。困ったからこそ知ったのです。私はこの国の民であり、たくさんのものを失ってきたようでも、戸籍や母国を失ったことがない。この地球上に70億人いる中で、そしてこの時代にいるということは、とても贅沢なことかもしれないと。私は決して貧しくない!相対的に貧困でも、私は恵まれている!ここまで落ちてもそう思えたのは、やはりあの「どん底」があったからです。私はどうやら生き延びられそうだ。

のこジィ
なんだかんだ住みよい世の中になったもんじゃな👍

そしてこの時からやっと決心して通院し、服薬を継続しはじめました。この頃にはしっかり医師に自分の症状を伝えられるようになっており、また、ぐったりと会話もできない時はそれも一つの伝え方だと、医師を信じてありのままの自分をさらけ出して通い、薬を調整していきました。徐々に回復し、少しづつ働けるようにもなっていました。それでももっと働きたい、誰かのために働く喜びをまた味わいたい!そんな気持ちが強くなってきました。振り返ると怒涛の日々ですね。

のこ太
やっと通院を始めたんだね‼
大きな前進だね👍

1.7. 30代のJ子

・負けたのは戦った証、で悔いなし!で潔く!?あの地獄を味わった郷へ…

人のために働く気持ちよさをまた味わいたい!そんな気持ちが増す中、2014年秋、私に飛び込んできた情報は障害者の法定雇用率が前年少し上がって、就労移行支援なるもののがこの国に増えてきているらしいぞ、というもの。私はしっかり、障害者手帳をゲットしました。なんの戸惑いもありませんでした。そして、自分の体調にあった働き方ができるならばと、3件の移行支援所を見学しました。が、自分に合いそうなところはその時はありませんでした…私の見学したところはどこも、狭い空間に人がたくさん…それだけでそのときの私には耐えられそうにありませんでした。やっと、一人で落ち着いてきたところで、これは飛び級。ゆったりしたところで自分と向き合えないものか…。そう思い、日に日に思うようになったのは、「地元に戻ってみるか…」でした。あんなに子どもの頃、地獄!!!と思えていた場所が、今なら、暮らせるかもしれない…。なぜかそんな気になっていました。このまま一人でいても、どんなに斜めから見てプラスに言い聞かせても、直視して確実な経済的困窮という現実。私にはそれから逃れるすべが思い当たりませんでした。情けない、と言ってしまえばそれまで。それでも私の特技は良くも悪くも、物事を良く捉えること。斜めからプラスに見ること!私は30を前にしてそんな特技を得ていました。そのため、居直りともいうべく、ここまであがいてだめだったんだからやむなし!退散!!と、潔く、私は東京を去ることにしました。潔さも私の長所(でもあり短所でもある…)。私は十分、戦った。そして自分ができないことを認めた。逆に、できることもあると認めた。何も知らなかった、経験がなく死を想うだけだった私が、少しだけ長生きして、生きることを想うようになった。私は十分なほど、幸せの土台を築けていたのかもしれない。(というのは、全て言い訳なのかもしれない、と振り返ることもある。マイナスにみれば。)

のこバァ
つらい思い出のある故郷に帰るというのはしっかり現実と向き合った証拠よ
今までよくがんばったわぁ

30を迎えて、帰郷。私は働きたい気持ちもありつつ、まずは体調を整えようと、自宅療養といいつつの単なる無職を過ごします。それでも、家事手伝い。寝て過ごす日もありーの、家事をこなす日々。また、祖母がおり、祖母の介護も手伝いました。祖母は私が戻って、半年後に他界しました。そんな祖母が寝たきりとなり亡くなる1か月前、「かあちゃん(私の母)とじゅんちゃん(私、J子)がいてしあわせだぁ~!」と、大きな声で言ってくれたことは我が家では伝説とも言うべき感動の瞬間で、祖母の死に立ち会えたことは、私の人生においてとても大きな出来事でした。祖母は今思えば私に似ていた人です。人付き合いが苦手で、たまに急に上機嫌になったりして、いつも一人でいる。そして強情。私はそんな祖母を子どもの頃、毛嫌いしていました。今は、自分を受け入れるように、フラットに、「愛している」と言えます。

のこママ
家事や介護も立派なお仕事よ👍
おばあちゃんを心地よくおくりだすことが出来て良かったわね✨

・地獄も巡れば天使に出会う!?福祉サービスありがとう!!涙

障害者雇用で働き始めたのは、祖母が他界して次の春。私は祖母が亡くなるちょっと前から、行政の相談窓口等に赴き、障害者雇用についての相談をするようになっていました。そして気がつけば、たまたまのご縁なのでしょうが、私の行きついた就労支援移行所の支援の手厚さと、担当の方の優しさたるや如何に!いままで、こんなに他人に親身に相談に乗ってもらったことはない!と言うのは過言ではありません。子どもの頃、地獄でしかなかったこの地に、こんな天使がいたとは!この担当者さんとの出会いには感謝しかありません。巡りあわせとは、本当に、長く生きてみないとわからないものです。私は生身の人を前にして、泣いたり怒ったり、学んだことを話したり、笑ったりして、それをありのままをうけとめてもらっているなあと思えたのは、この担当者さんが生まれて初めてでした。やっぱり長生きはするものです!私も少しの間でしたが福祉の仕事を経験し、「受容」する大切さは学び実践してきたものの、自分がしてもらえるとこんなにいいものかと改めて思いました。

のこパパ
いい担当さんに出会えてよかったね‼
生きていればいつかいいご縁にも恵まれるものだね👍

・障害者雇用で働いてみた!…実際のところ。。。と、私のテロ癖。

では実際、障害者雇用で働いてみてどうだったかというと、支援は手厚くありながらも、職場に入ってしまえばいちパートタイマー。事務の仕事ではあったものの、そこで感じたのは障害があるうえパートだからと、なかなかコミュニケーションを図らせてもらえないジレンマ。(その課にパートは私一人だけだった。障害者雇用も初とのこと。)そして大人になって知ったのは、この土地では飲みにケーションができないと親睦が図れない!という新たな地獄。都会ではSNSで出会いコーヒー一杯であんなに人と楽しくお話しできたのに!出会いのイベントも婚活しかない、求めているものはそういうんじゃあない…。文化の違いにおののく。また、私はこの土地の寒暖の差や、雪深さを甘く見ていました…。支援には恵まれたものの、自然の厳しさに私の体調はなかなかついていけないのです。雪が降り、車で出社し遅れるものならば、ものすごく冷たく怒られます。(当然か…)雪な上に人も冷たい。みんなに白い目で見られます。(そりゃそうか…)社内まで積雪!?驚愕…落胆。田舎の人は温かい、なんてことは、身内にのみです。田舎の人が優しいのは仲間内だけなのです。職場で、コミュニケーションをうまく図れない私はいつまでたっても、仲間ではなく、田舎の温かさの恩恵には授かれませんでした。

のこ蔵さん
一難去ってまた一難…
地元でカルチャーショックを味わうことになるとは💧

そんな中、私はうつ状態で休職をします。最初は休職制度があるから、無理せず使っていいよ、と優しく言ってはもらえるものの、使うとのちのち気まずくなるというのが制度というもの。(経験上。…この悩みは本当にどうにかならないものか。)障害者雇用でも無理せず休んで結局は、気まずい。体調の話をすれば、専門家じゃないからわからないと、上司に相談もできませんでした。そうして1年半が過ぎたころ、今度は私に躁の波がやってきます。仕事中、急に涙が止まらない。これは歓喜!その時思ったのは、私は働いている!という喜び。数年前、誰かのために働く喜びをまた味わいたいたい!と強く願ったことが叶った!そんな気持ちで世界が急にキラキラして見える。その日の午後、波は激躁にかわります。私は上司の嫌味な愚痴にキレてしまった!実はここは役所。人にもよるのでしょうが、その上司は、正職員以外のパートタイマーの存在がどうやら鼻もちならないようなのです。周りの職員は当然ながら上司のイエスマン。私には立場に対するハラスメントにしか思えませんでした。それは働き始めた時からの積り積っていた感情でした。(もちろん普段、正職員さんはとても優しいです。ただ、組織の中ではイエスマンになってしまうものなのでしょう。)そして…私はやっちまった!私は飛んだ。ベランダから。全てがどうでもよくなり、衝動的に3階から飛び降りようとしてしまったのです。激しい衝動!テロ再び!!これで何度目のテロか…。

のこバブちゃん
バブ‼❓
またバブか⁉

数人に体を支えられ、落ちずに済んで今の私がいます。感謝しないといけない。私は高所恐怖症です。なのに、恐怖が全くなく、空はただただキレイで、プチっと頭はキレている。これも躁のなせる業です。躁は本当に怖いです。空も飛べると思います。あんなに長生きをモットーにしてきた私が一瞬で嘘つきになる。嘘つきはだめだ。テロはだめだ。私のいちばんの困りごと。衝動的破壊行為。テロ。そこにあるのは計り知れない怒りと悲しみ。自分の体も簡単に壊せそうになる。私は三十路を越えて、自分の思考の癖に気がついた。私にはテロ癖がある。長生きして気がついた。テロ、ダメ、ゼッタイ!!

のこジィ
なにはともあれ生きてて良かったのぅ
そしてそこから自分の弱点に気づけたのは偉いことじゃ👍

・障害者雇用って何だろう…。

私は障害者雇用で働く際、履歴書と一緒に、文書で障害特性を書いた自己紹介書のようなものを添付しました。そこで苦手な場面や、配慮してほしい事を書いたのですが、そのひとつが「悪口や愚痴を聞くのが苦手」というものでした。私はその日、躁状態にあって、苦手な場面にピッタリ出くわしてしまったのです。配慮してほしいと伝えてはいたものの、ここまで大事になってしまうと「そんな配慮はできない」と言われ、障害者雇用における合理的配慮ってなんだろうと、疑問に思わなくもなく、しかし、社会通念上考えれば、空を飛んじゃう人は困った人で、私はそこで、仕事を辞めることとなりました。2018年秋、巷では各役所で障害者雇用の水増し問題がニュースを賑わしていた頃です。そしてこれが私が働いていた役所で起きた、障害者雇用の問題です。私は、役所だからこそ、率先して障害者を働き手として配慮してもらえるものだと期待していたところがありました。しかし、日本各地で、そんな期待は大外れで、且つ、生職員とパートタイマーの確執という、もっと根深い問題があるのだと、現場で知ったのです。現時点で、私が障害者雇用で働いてみての感想は正直なところ「障害者雇用っていったい何だったんだろう?」。と、これにつきます。ただ感じたことは、うまく言えませんが、だいたいの守りがうまい人は、守りが苦手で何かに守られようとしている人に、手厳しいということ、です。

のこ助さん
陰でコソコソ言いやがって‼
そんな陰湿なやつらこっちから願い下げだぜ‼

1.8. 今とこれからのJ子

・私はいつも誰かの恩恵を授かり生き延びてきた。恩を返せた!という実感を今後の目標に。

最近の私は通院は月に一度、3分程度。今後のことで就労移行支援の担当者さんとたまに会います。引きこもるのは嫌なので、会いたい人には会おうと、東京には結構足を運んでいます。実家でありながら家族とは特に話すことはありません。ただ家はある。十分かもしれません。私は贅沢なのかもしれない。それでも私はもっと幸せになりたいと思います。やっぱり長く生きたいと、そう思います。私は欲張りだから、まだ見ぬ幸せを、もっともっと探したいと思います。テロ癖も治したい。躁鬱の波とももっとうまく付き合いたい。そしてやっぱり、誰かのために働きたいと、思います。私は誰かが働いた恩恵の上で、こうして守られてきたのだから。それを、決して忘れずに、守り守られる社会の仕組みの中で、あきらめず、社会人として生きていこうと思います。私は自分が生き延びるための制度を活用し、支えられて生きてきました。この先も、少なからず、そうでしょう。社会人である以上みんなが平等にそうです。私の人生はきっと長い。(テロさえなければ。)私は長い人生の中で、受けた恩恵をなるべく返せる人であろうと思います。私はどんな形でも、働くことをあきらめたくない。働くことで、誰かの支えに少しでもなるならば。自分と社会との折り合いをつけて、少しづつでも自分にできる恩の返し方を学んでいきたいです。

のこ太
これからも大変だと思うけど
病気と向き合いながら長生きしてね‼
応援してるよ👍

2. どんな精神・発達障害を抱えていますか?

診断名は双極性障害。何型かは診断書では見たこともなく、とくにこちらから尋ねたこともありません。過去に発達障害やパニック障害の診断も受けたこともあったのですが、今の主治医のもとでは双極性障害との診断のもと、寛解の維持に努めています。また普段は寝つきが悪く睡眠不足になりがちなので睡眠に関わる治療は欠かせません。

2.1. いつから精神・発達障害を抱えているのか?

躁と鬱の自覚症状は中学生に入ったころからです。診断名がついたは高校2年生の夏。本気で治療を始めたのは28歳の春です。

 2.2. どのような症状?

例えるなら、ベートーベンの運命と第九が急に私に降りてくる、と言った感じです。(笑)

鬱の時はとにかく寝こみます。BGMは運命です。このBGMをとめるために寝こむようにしています。思考してしまうと悪循環になるからです。また、ひどいと思考停止状態が発動し、会話ができなくなったりもするので、潔く、前向きに寝こみます。食べるのも着替えるのもお風呂もみんな億劫ですね。そんな時は「時間が解決してくれる」と思い、やはり、不用意に行動しないことにしています。私の場合、欝は波みたいなものなので、とにかく波が引くのを待ちます。引いてきたなと思ったタイミングを逃さず行動するといった感じです。

のこ太
上手に鬱状態と付き合えてるみたいだね‼
鬱の時に何か考えたり何かしたりしても空回りするだけだからね

躁の時はとにかく歓喜。BGMは第九です。感動屋になり涙もろく、愛しさがあふれ出てきます。人にプレゼントすることが多くなると危険信号です。プレゼントで散財します。逆に、買い物がしたくてたまらなくなったら、いつか誰かにあげるためのプレゼントに使う、と決めて無駄な買い物じゃないと言い聞かせたりもします。あと日用品の買いだめとか。お気持ち程度のプレゼントで人が喜んでくれるのはうれしい事ですよね。ですが情け深さも困りものだなと気をつけています。結局人に迷惑をかけてしまうので。また、怖いもの知らずで、あれもやりたいこれもやりたいと、手当たり次第手をつけます。頭の中はうるさいなあというくらい妄想が膨らみ、それを部屋で一人、鏡の前で話しています。寝付けません。一番の困りごとはやはりカッとなって衝動的に破壊行動に出てしまうことです。カッとなることだけは本当に困りごとです。

のこママ
プレゼントといえば聞こえはいいけど浪費には変わりないわよね💧
買い物自体が快感になってしまったら危険よ‼
のこ助さん
おれもよくカッとなっちまうが
J子さんは元々そんな性格じゃないから後悔するんだろうな

3. 精神・発達障害でこれまで大変だった事

これまでは、とにかく仕事が続かないこと、収入が安定しないこと。気分の波で周りの人を困惑させ、人付き合いが続かないことですかね。大変でした。それでも正直に話して、繋がっていてもらえる方たちもいるので、そういった方たちを大切にしたいと思っています。そして今は、自分の状況を理解してもらうことや、住んでいる地域では、社会参加することが極めて難しいと感じていて、これはとても悩みどころです。

のこ美ちゃん
気分の波でどうしても周囲との摩擦はできてしまうわよね…
最後まで切れなかった絆をこれからも大切にしていってね✨

4. 今現在どんな治療を行なっている?

服薬と自宅療養です。寝付くためには眠剤は欠かせません。後はサプリを飲んでいます。ビタミンやミネラル、アミノ酸など、栄養は意識しています。もともと食通では無いので、サプリでの栄養を補うことや服薬は合理的でいいな!と思っています。たっぷり睡眠、早寝早起きは私の中では鉄則です。また、自分に合った生活リズムを肯定するということが、一番の健康法かなとも思います。(それでもたまに夜更かししちゃうけどね♪)朝起きれなくても、今日はそういう日!と、自分を許してあげることです。疲れてるもんね、いっぱい休んでね。と、自分に優しい言葉を投げかけることも治療の一環です。言葉にすることは大切で、やっぱりSNSの活用は適度に重要ですね。言葉は毒にも薬にもなると思っています。薬になる言葉を自分にいっぱい使ってあげたいです。

のこ蔵さん
やはり生活リズムを整えるのは大切ですな‼
とはいえそれに固執しすぎるとストレスに…
何事も「ほどほどに」が大事ですな‼

5. わたしの日々の過ごし方

今は休職期間中のため、実家での夕食作りが唯一の仕事のような感じです。あとは、朝は起きたら必ず着替え、お化粧もします。贅沢生活に思えるかもしれませんが、整容することは生活の張りを出すのには有効ですね。身だしなみを整えることは自分を大切にすることだと思います。朝から気持も上がります。私には欠かせない事です。それは介護職時代に学んだ知恵でもあります。私は認知症対応型の入居施設で働いていましたが、今はそこで学んだことを自分の生活に活かしている感じです。また、夕食を作れない日があっても、整容できない日があっても、自分を責めず、独り自分をほめています。

のこ美ちゃん
キレイでいることも女の子のお仕事よ❤
自己肯定感をあげるのは大事なことだしね♫

6. 今の目標

やっぱり健康第一。立ち止まっても自己嫌悪しない。いつもワクワクする。ワクワクすることしか選ばない。それと反対のものは我慢せず避ける。優しい人ではないかもしれませんが、今の私はワクワクを優先して心地よさを存分に味わい、「心地よい自分であることが自分のデフォルト」だと、潜在的に自分にすり込ませることが、今の目標です。不幸なのが私、と思っていた過去の私から脱却して、「穏やかな幸せが当たり前にある自分」を現在未来に体現したいです。そして余裕のある人を見習うこと。どんなことでも目的意識を持っていてそれを楽しんでいる人を応援すること。自分のできる範囲で。自分がこうありたいと思う人に会い学び、応援する。私は余裕のある人になりたいです。20代は「がむしゃら」に幸せ探しをしていましたが、30代のこれからは「足るを知る」を土台に、余裕を持ってさらに未だ見ぬ幸せに出会いたいです。また、テロ癖は本当に切実な問題なので、なくしたいです。今の課題です!テロ癖療法真剣模索中。

のこバァ
過去のトラウマから抜け出してこれからの人生を幸せにしていきましょうね✨

7. わたしにとって回復に役立ったと思う活動

これは制度の活用です。その知識を持っている人に出会うこと。本当に困まるまで知らなかった救われ方が世の中にはあるもので、その知識を知り、また必要に応じて活用することは、回復する上でとても役に立ちました。それこそ、余裕が生まれ、行動して次のことを考えようという意欲がわいてきます。

のこパパ
障害があって人より苦労してるんだ
使えるものはありがたく使っていこう‼

8.逆にわたしにとって病状を悪化させたと思う活動

正直に申しますと、私は子供のころから変わらずですが、ネガティブな言葉や人の不機嫌が苦手です。なので今は、なるべくそれを感じる環境に身を投じない、見ない聞かないようにする。必要に応じて心を閉じる、ということが、私にとっての病状を悪化させないように気をつけていることです。前向きな問題解決の相談は平気なのですが、愚痴につきあうなどの相談に乗ることはなるべく避けています。淋しさを共感する場などもなるべく避けています。おそらく私は同調しやすい性格で同じように苦しくなってしまうのだと思います。また、同じ症状を抱えている方であっても、頼りすぎたり頼られすぎたりしない、ということも決めています。頼りべたも困りものではありますが、依存が成長を妨げることも学んできたからです。人間関係においては、お互いの症状を悪化させないために、誠実さを忘れずに、程よい距離間のお付き合いをこれからも意識したいです。

9. 繋がろう!!

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