「~人生いろいろ、男もいろいろ・・・離婚2回から結婚3回めの物語~」byたかこ

初めまして。たかこと申します。

 

のこ太くん
たかこさんよろしくね☆

自己紹介をします。

私の好きな事は、音楽鑑賞、カラオケ、ドライブ~からの道の駅めぐり、庭いじりが好きで野菜や花を育ててます。調子が良い時は、凝った料理やお菓子作りをします。でも、最近は料理は簡単に、お菓子はほぼ作らなくなってしまいました。(台所に立つのは好きだけど疲れちゃうんだよね♪)

のこママ
たかこさんはとっても多趣味なのね☆
のこパパ
もうちょっとママも凝った料理を作ってほしいなぁ〜
のこママ
もうパパにはご飯作らないわ
のこパパ
ひえぇぇぇ〜

 

昔はピアノを弾く事、学生時代はテニスをする事、吹奏楽部に没頭していました。ほとんどテレビを観る事が無いのですが、今はシーズンが来れば、フィギュアスケートや体操、シンクロナイズドスイミングなどを観るのが好きです。(音楽と限られたスポーツが好きな私♪)

のこ美ちゃん
パパとママはさておき、好きな事がたくさんあって素敵だわ♡

病名は双極性2型の診断名がついています。(病名は転々としたね♪)

過呼吸の発作も抱えつつ、人ごみが怖くて、都内に出かける事が一人では出来ません。頓服は必須アイテムです!(苦しくなっちゃうんだよね♪)

外出先で意識を失う事もありました。最近はありません。(出先で倒れるって大変♪)

私の赤裸々な人生を語ってみたいと思います(「語る」なんてちょっと生意気♪)

生まれ育った環境(この記述では王国と言います)の中で学んだこと、感じた事、いろいろありました。幼い私を連れて、母の実家に逃げる生活も度々ありました。母は、命の危機を感じたのか、ストレスMAXだったのか、詳しくは聞いていないのでわかりません。(王国なんて大げさだけど、実際そう感じたんだよね♪)

世の中には、私よりもスゴイ体験・経験をされていて、ドラマが何本も作れるような、映画が何作も作れるような人生を歩んで来られた人も多くいます。(人の数だけ人生のドラマがあるんですよね♪)

私もちょっぴり人生を振り返ってみて、皆さんにこういう人生を送っている人もいるぞ!って、伝えてみたいと思います。(大したことないじゃないか!なんて思う方も居るでしょう♪でも、負けない私)

その時々の経験が今の自分へ導いてくれた「貴重な時間です。」と、今なら言えるのですが、言えない時代が長くありました。(誰だってそうだよね♪)

人とはちょっと違う?ズレてる?私オカシイの?等々・・・思う事が沢山ありました。でも、支えてくれる人たちがいたから、仲間を見つけたから、今を生きてます。(私ラッキーだった♪)

いじめ、恋愛、結婚、離婚、転職、入院・・・いろんな経験をしてきました。(自慢できる話じゃないぞ♪)

参考になる方もいるだろうし、馬鹿じゃない?なんて思うかもしれないですが、ぜひ私の人生を覗いてみて下さいね。(読んで欲しいな♪)

長い長い物語になりそうです。長編大作を作った訳ではないけれど、結果的にそうなっちゃいました。人によって、読んでて不快に感じる表現があるかもしれません。どうかお許しください。(精一杯気遣ってみたつもりです♪)

では、はじまりはじまり~。(ここまで長かったね♪)

のこ助さん
大変な事を乗り越えて、今のたかこさんがあるんだね!話してくれてありがと☆

1. 私の人生

1.1 生まれてから~暴力に耐え、生きるためのスキルを身につけた~

1973年に岐阜県にて、10歳離れた姉、8歳離れた兄の次に産まれました。故郷は岐阜・・・とは言わず、現在は大阪と語ってます。一番長く住んでいた場所だからでしょうか。

七五三の写真(古すぎて良くわからない画像・・・)

のこママ
綺麗な着物がとっても似合っていて、可愛いわね♡☆

 

両親と姉兄との生活で、不思議な生活が営まれていました。それが、今でいうDV。昔でいう「家庭内暴力」でした。父が一番の王様で支配者でした。その被害は全員に。もっと言えば、母は自分に必死だため私に関心があるような無いような。姉は無関心。兄は私を可愛がりつつ殴る罵倒する。戦場の真っただ中での生活。逆らうと容赦なく拳がきて、茶碗は空を飛ぶ、叫び声は日常茶飯事、警察を呼びますが事件性に発展していなかったため、帰ってしまう。(すごく残念!!←ここ重要

のこ太くん
家庭内の出来事は昔だと警察も介入してくれなかったんだね

この家庭を「王国」と呼びます。そういう中での生き残り方は、人の顔色を伺い、逆らわずに言う事を聞きながら耐える事を、産まれてから徐々に学びマスターして王国での生活になれて行きました。操り人形になっていました。この、マスターした生き方が後の私の生きにくい人生へとつながります。そして、幼稚園に通ううようになります。

1.2 幼稚園時代~初めての挫折を味わった~

 

王様である父は、暴力だけではなく、お金も湯水のように使い、家に入れるお金はわずか。大手企業に勤めていたのに、私の着る服はお古、母の手作りかリメイク。幼稚園カバンなどは母の手作り(手作りなんて良いじゃない!)で、お菓子も市販のものではなく、母の手作り。(手作りなんて良いじゃない・・・二度目)その時は、他の幼稚園の友達と比較する事もなく、ボーっと生きてました。

集中力がある反面、全く集中できない私でした。「落ち着きが無い」と、その後の学生生活でも言われるほど、集中出来ない子供でした。

今でも思いだすのは、幼稚園のちぎり絵を作る時間では、皆は時間内で終わります。しかし、私は終わらず(細かくちぎりすぎていた事と、壮大な絵を作ろうとしてていたため)、毎日残業(居残り)の日々を送り、やっとの思いで完成した私の大作を、自分が思うほど皆は評価してくれませんでした。初めての挫折でした。あんなに頑張ったのに・・・。

のこ助さん
とっても一生懸命作ったのに評価されないのはヒドいね
のこ美ちゃん
小さい時から一生懸命に何事もする子だったのね!!!

 

幼稚園のお歌の時間は嫌いでした。音痴だったのです。ピアノには幼稚園に上がる頃から初めていたにも関わらず、音程を取る事が出来ませんでした。本当に嫌で嫌でたまりませんでした。そして、大手企業で務める父は、全国行脚(転勤)の旅を好んでいたので、岩手県の幼稚園も転園して、「先生さようなら、みなさんさようなら」でした。転園する前に、人生初めての大けが、両足を車に引かれる事故に合いましたが奇跡的にも歩けるようになりました。そして、次の王国の場所は福井県。浮気者の私は新たなお友達を作っていました。無事卒園して「先生さようなら。みなさんさようなら」。そして、小学校へ入学するのです。

1.3 小学校時代~他の家庭とは違うと感じた~

 

小学校に上がり、お友達のお家に遊びに行くようになり、自分の家と、友人の家の違いをジワリジワリ感じるようになるのです。

全国行脚(転勤)が好きな父は、単身赴任をしました。姉は多感な女子高生。兄はインドアな中学生。王様のいない生活。平和な日常を、人生で初めて味わいました。王様がいないので茶碗が空を飛ばない・・・。なんて素晴らしい世界だろうと思っていました。しかし、王国では問題児もいます。姉と兄の喧嘩では包丁がキラリと光る事も度々ありました。そんな生活を送っていたのもつかの間。父の遠征先の福島県に家族は召集の命令があり遠征先に行く事に。その時タイミングよく姉は祖母の家に居候して大阪の短大へ。そう、遠征先への召集から回避に成功したのです。(羨ましい・・・)母と兄と私が父の遠征先に行き、福井県での小学校で「先生さようなら。みなさんさようなら」と、なりました。

のこ太くん
姉弟ゲンカは激しいと聞くけど、相当激しかったんだね

 

そして小学校2年生の浮気者の私は、福島県で新しくお友達を作りました。ピアノのレッスンはずっと続けていて、毎日練習に没頭していました。今思えば現実逃避です。将来はピアニストだ!と、大きな夢を抱いたのはこのころでした。

のこジィ
毎日練習して一生懸命ですごいのぉ〜!!!関心するわい!!

 

しかし、人生初のいじめにあいました。一番仲良くしていたお友達の家に遊びに行った時に、彼女のお姉さんとそのお友達からひどい仕打ちを受けます。王国でも経験のない体験でした。内容があまり良いものではないので此処では割愛させていただきます。

のこ美ちゃん
友達のおい姉さんまで意地悪するなんてなんてヒドいの

 

王様は相変わらず権力を振りかざし、兄がクーデターを起こすも、虚しく終わりました。

その頃の王様の楽しみは、ハワイアンな大きなレジャーランドのフラダンスを踊る女性たちにご執心。お金に物を言わせて控室にまで押しかけてしまうほど。(家に金をいれろよ!)そして、次の遠征先に行くまで通い続けました。

 

遠征先での私の中で、他の家庭と違うと思うようになったのは、遊びに行くと「お菓子」が出てくるのです。しかも、お店で買ったケーキやスナック菓子。もちろん飲み物はジュース。そう、知らない世界に足を踏み込んでしまったのです。衝撃的でした。なぜ、王国では見かけないんだろう?と疑問を抱くようになります。

 

そして、順応性が良かった私は方言を巧みに操り、家庭内でも披露していましたが、王国では「標準語」が公用語だった為、罰を受ける事が度々ありました。なぜか、母も一緒に罰を受けるという不思議なシステムでした。私よりも母の方が、より厳しい罰を受けていました。王様の制裁によりけがをした母。しかし、王様は病院へ母を連れて行き「妻が階段から落ちました。」と、言うのです。私は(本当は違うよ。王様がやったんだよ。)と心で叫ぶけれど、その場では本当の事をいう事が出来ません。怖いのです。今の時代なら、医者から警察にタレこみがあったのかもしれませんが、当時はそういうシステムでは無かったんですね。さすが古き良き日本。

今でも目をつぶれば王国での嫌な生活を思い出します。

クーデターを起こした兄は、家を追い出され、追いかけた母も家の鍵をかけられ、真冬でそのまま飛び出した母と兄。社宅の二階から外を眺め、カーテンでロープを作れないか考えましたが小学三年生の私には知恵が足りず、母と兄の救出に失敗しました。そして、母と兄が戻り時が経ち、王様は突然会社を辞めてしまったのです。働き盛りの頃です。誰にも相談もなく。一家は路頭に迷う・・そんな一大事でした。しかし、大阪へ旅立つことに。これが王様の最後の遠征でした。

やはり、「先生さようなら。みなさんさようなら」をします。

退職金、当時3千万程を片手に来た新たな王国大阪。王国から離れた姉はついに召集され、家族五人での生活が始まりました。その頃には、本格的に我が家と他の家庭は違うと気付くようになり、我が家の様な国は無いのだ、王国はオカシイ、そう思う気持ちが強くなりました。

一番仲の良い友人の家によく遊びに行きました。書道教室も共に通う仲です。彼女のお宅では、お父さんもお母さんも優しく、やはり王国では出てこないお菓子や飲み物が出ます。茶碗が飛ぶこともなく、テーブルがひっくり返る事もなく、鉄拳制裁がない・・・と、友人から聞かされて、「うちの王国は他の家庭とは違うんだ」と思いました。小学校6年間の間に3つの小学校に通う事になり、もう王国での生活が嫌でたまりませんでした。食事の時間、学校での出来事を話しながら食べると鉄拳制裁が。無言で食事をする。王様より早く箸を持ってはいけない。王様より遅く食べ終わるのはいけない。子供には理解不能な食事でした。

のこパパ
亭主関白が過ぎるというか、行き過ぎてる王様だったんだな!!ヒドいもんだ

 

そんな頃です。「初恋」を経験しました。クラスで1、2を争う人気者に「恋」をしました。しかし、嫌われる事が怖くて、なかなか仲良くなれません。もう一人の人気者の彼は、長い間隣の席で授業中二人でクスクス笑いながら日々を過ごしていました。その彼とは仲良く冗談もいいあいましたが、「恋」に落ちる事は無かったですね。もったいない事をしました。そして、告白する事なく小学生の時のその恋は終わりました。

後に、私の男性への依存の一歩となるのです。

その頃の王様は、軍資金3000万を湯水のように使い、起業するも失敗。フランチャイズのお店のオーナーになろうとするも失敗。海外からの買い付けの仕事をするも失敗。数えたらきりがないチャレンジを王様は続けます。失敗すれば、母が制裁をうけ、私が「お父さんやめて。」と母を守ろうとすると、より母が制裁を受ける。目の前で繰り広げられる惨事に、何も出来ない自分に悲壮感しかありませんでした。心が泣き叫び悔しく悲しく苦しい気持ちで一杯で布団にもぐって泣いていました。

のこ太くん
ほんとにヒドい王様だ…..

 

学校では、福島で覚えた方言を巧みに披露すると、笑いものになりました。正直傷つきました。なので、大阪の言葉を早く習得して家でも披露すると鉄拳制裁でした。また、小学校5年生の時には、6年生から再びいじめにあう事に。何が悪かったのか、機嫌を損ねたのか、未だにわかりません。そして人間不信が芽生えながら中学校に進学します。

先生さようなら。みなさんさようなら

1.4 中学校時代~病気の症状が現れ始めた~

 

中学校も事情があり3つの学校に通う事になります。まずは、早く王国から逃げたい姉が結婚。その頃には、軍資金が尽きた王様はニート生活。母が家計を支えるために働く。その母の収入があるという点で、離婚が成立して王国は崩壊しました。母は、兄と私を連れて王国を出て行きました。

のこパパ
王国から逃れられてよかった
のこママ
お母様もとっても頑張られたのね!!!

 

先生さようなら。みなさんさようなら」何度目でしょう。

これで安心した生活が出来ると思っていたのもつかの間、新たな王国が誕生します。次期王様は兄でした。兄は母に不満をぶつける事は無く、全てのうっぷんを私にぶつけてきました。新たな学校での生活でもいじめを受けました。小学生のころからテニスをしていましたが、中学に上がってクラブ活動のテニスで一生懸命頑張りました。

のこ助さん
イジメは本当にヒドいわ。なんてそんな事すんだ

 

そんな私は標準体重より重く、ついたあだ名が「ジャイ子」でした。そう、いじめのターゲットロックオンです!

話しかけてもクラスメートは無視。学校生活が辛い事を母に言いますが、聞き入れてもらえず登校拒否に。母は業を煮やして総合病院に連れて行き、採血だのなんだのと検査をして病気じゃないんだから学校に行きなさい!と厳しく言い放ち、次の日から学校経由で比較的仲よくしてくれていた友人が迎えに来てくれて、嫌々学校に通いました。この頃、時代もあったのでしょうけれど、精神科や心療内科にかかっていれば、違った道があったのかもしれません。

両親の離婚後、母は私と兄で母の実家の祖母の家に身を寄せていました。大好きなピアノは、生活費が厳しいためレッスンに通う事をあきらめざるを得ませんでした。書道も同じです。

祖母と一緒に暮らし始めて間もなく祖母は他界します。部活から帰ってきた玄関先には「忌」の字が書かれた紙が貼ってありました。私が部活で楽しく過ごしていた時に、息を引き取っていたのです。これが、人生初めての近親者との永久の別れでした。親戚中が家に集まり、母が親戚中からいじめを受け、亡き祖母の家を出る事に。ここで、「先生さようなら。みなさんさようなら」となりました。

引っ越し後、新しい学校ではいじめには合いませんでした。不良少女のお友達がいた事もあり、特に因縁をつけられる事もなく、ただ他校の人には「知り合い?」と聞かれた事はありました。有名な方だったようです。でも、面白くて優しい人でした。

のこ蔵さん
お友達に恵まれて良かったですな!不良少女さすがですな!!!

この頃の兄は、手が付けられない暴君と化していました。茶碗は空を飛ぶ事が無かったけれど、本やティッシュの箱などが飛び交い、ふすまに穴が開く事件もありました。私にだけに鉄拳が飛び、母には何も言わず、それを私はただただ耐える生活でした。なので、兄のいない間だけ、ピアノを弾く事に没頭していました。暴君の兄は、バイトから帰った深夜に私を起こし、自分の夕食を作れと無謀な要求をしてきました。それに従わないと拳が来るのです。なかなかゆっくり眠る事が出来ない時代でした。

そんな中学生の頃に、再び「恋」に落ちました。仲よくしていたグループの男の子。告白する前に彼女が出来てしまいその恋も終わりました。その後クラス替えで人気者の男の子にも「恋」をして、卒業式の時に思い切って告白するも、またも撃沈。周りは彼氏を作ってラブラブな生活を送っていたので、悔しいやら情けないやら惨めな気持ちでした。

のこ太くん
僕も振られてばかりだ……
のこ美ちゃん
のこ太ドンマイ笑!

そう、この中学生の時に病気がぴょこっと現れてくるのです。きっとハイな時期が続いていたと思います。でも、気付きません。楽しいし、活発に動けるし、無謀なほどのポジティブな考え。友人と女性だけのバンドを組み壮大な妄想もしていました。しかし、猛烈な虚無感や寂しさが訪れ、友人の家に何度も何度も電話をして、それでも虚しい気持ちが消し去れず、辛く苦しく悲しい気持ちを抱えて生きるのが、始まりました。それは、今思えば鬱だったのでしょう。

そして、高校へ進学します。「先生さようなら。みなさんさようなら

1.5 高校時代~病気の症状がますます出てきた~

 

長い間暴君の父と兄に振り回された生活は、一旦ここで終わりを迎えました。兄は大学卒業後、何故か父と同じ会社に勤める事になりました。(なぜ選んだんだろう?)新人研修もあり、家を出たのでその後は母と二人の生活が始まります。そして、反抗期がやってきます。家を出るまで、何度も衝突し、反抗し続けました。

中学時代、同じ大阪府内を3ヶ所転校し続けた私ですが、春に転校なら良かったのに、学期の途中での転校。使われる教材が違うため、特に英語と数学はついていけず、赤点だらけ。なので、進学できる高校もそれなりの府立高校でした。もちろん学年内の成績は下から数えた方が早かったほど。高校の授業にもついて行けず、部活に没頭する日々を送りました。

のこママ
苦手なことがあっても、好きな事には没頭出来る子だったのね!!頑張ったわね

 

中学までテニス部だったので見学に行きましたが、キャッキャ、ウフフ・・・な楽しいサークルの様な部活動で、一気に気持ちが覚めて、ずっと気になっていた吹奏楽部を見学し、即入部しました。たまたま兄が使っていたトランペットがあったので、楽器を買ってもらえない私はトランペットにのめり込みました。

これ、私です。

のこ美ちゃん
トランペット吹いているたかこさん素敵だわ♡☆

2年生に上がる時には進路を選ぶことになり、英語をメインに時間割が組まれる文系クラス、標準な文系クラス、生物か物理で別れる理系の4つから選ばなくてはなりません。英語が嫌いで仕方なかった私は、数学と英語を天秤にかけて、生物の理系を選びました。しかし、のちにトランペットで音大に行きたいだの、高校教師になりたいからと文系の大学に受験するなど、彷徨い続けました。すでに、ピアニストの道は閉ざされていたので、将来の夢はグダグダです。母との関係も悪い中、第二次ベビーブームの世代の私には、どこの大学を受験しても落ちるばかりでした。これも、大きな挫折でした。(受験代を沢山出してくれた母に感謝です)

何となく高校時代を過ごしていたので、しっかり勉強しなかったんですね。そんな高校時代に仲よくしていたグループの友人たちの中で浮いた存在でした。周りからは「変わり者」と思われていました。

気分の起伏が激しく、落ちた時には生きている意味が解らない・・・と思うほどでした。この時も、心療内科や精神科に行く事もなく、ジェットコースターの人生を歩んでいました。この頃から、テレビをあまり観なくなり、特にドラマは観ませんでした。ドラマは苦痛でした。体が頭がどうしても受け付けないのです。「王国」と比較してしまうのです。これは、大人になってからも続きました。クラスメートとも、ドラマやテレビの話が合わず、疎外感も感じました。

そんな高校時代でも何度か「恋」をしました。ほぼ撃沈でしたが、部活の先輩には気持ちが通じてお付き合いをする事に。部活帰りに一緒に話しながら下校するのが楽しい日々でしたが、それもつかの間。私の友人を好きになったから・・・と振られました。なかなか立ち直る事が出来ないまま日が過ぎて行きました。完全に、鬱になってました。

のこジィ
失恋のショックが大きすぎたんじゃなぁ

何故か仲の悪い母から、唯一大晦日から元旦にかけての初詣は許されていました。唯一の朝帰りで自由な時間でした。その後も、初詣は大晦日の夜に出かける事になります。

 

そして、全ての大学受験で落ちまくった私は、社会人デビューする事なく、ニート生活に入ります。

最後の「先生さようなら。みなさんさようなら」と、学生生活の終わりを迎えました。

卒業時には、部活の後輩たちから色紙を貰いました。イメージイラストを中心に、皆のメッセージもイラストの周りに書かれていました。かなり美化されたイラストでしたが、嬉しかったです。

1.6 社会人デビュー~ストーカーになる~

浪人して予備校に通うのか、社会人として働くのか悩んでいた頃、姉に「今は就職しなさい。どうしても大学に行きたいのなら、お金を貯めて自力で行きなさい。」と諭されました。ニート生活中は自動車教習所に通う日々を送り、母が知り合いに頭を下げて2カ所の就職先を提案してくれました。一つは音楽にかかわる仕事。もう一つは料理人の仕事。本当に凄く迷いました。お菓子作りや料理が好きだったので、料理人は魅力あふれる働き口でしたが、好きを仕事にするのは良くない・・・と誰に教わったのかわかりませんが、料理人を選ばず音楽にかかわる道へ進みました。高校を卒業して6月には遅めの社会人デビューをはたしました。

高卒で働いていたのは私ぐらいで、中途入社の扱いなので同期もいない、寂しいデビューでした。此処でも天真爛漫に生活し、仕事の常識のイロハも知らずに仕事をして先輩や上司の間で問題児となっていました。

同じ職場に出入りする別の会社の人に一目ぼれをして、甘いものが好きだという彼に、一生懸命お菓子を作っては差し入れしてました。もちろん、職場の先輩方の好みのお菓子も、よく作っていました。この頃は躁でしたね。仕事から帰ってきてから夕食を済まして、お菓子作りに没頭。寝不足になりながらも、先輩が喜ぶ顔が見たくて一生懸命な日々でした。今思えば、嫌われたくないという気持ちで必死でした。お金もあるだけ使い、貯蓄など一切していませんでした。

一目ぼれした彼には彼女がいました。でも、猛アタックです。職場の人も周知の事実。ある日デートに誘われました。喜び勇んで待ち合わせのお店に行くと、丁寧なお断りでした。そう、振られました。その夜はドリカムの歌で歌詞がガチっとハマって泣いて泣いて泣きまくってました。

しかし、この辺りから男性との交友が増えてきます。寂しい気持ちを持て余していた私は、高校卒業後も活動をしていた吹奏楽部のOB会に参加していました。そこで、二人の男性に恋をしましす。一人は撃沈、もう一人は沖縄の大学に通っていた先輩と親しくなりました。付き合うようになり、遠距離ながらドキドキした日々を送っていました。先輩は下宿生活なので電話は公衆電話。私は手紙と共にテレカを何枚も送り続けました。そして、母が驚くほどの電話代になり、よく喧嘩になりました。

のこママ
もともと恋愛体質だったのかしらね☆
のこママ
でも、躁のために、恋愛にののめり込みすぎていたのかもしれないわね!!!

 

私が沖縄に行ったり、彼が帰省した時は、ずっと一緒に過ごしていましたが、彼が卒業する頃、将来を約束していた二人のためにと、彼は研究職を諦め大阪で仕事を見つけました。交際は順調と見えて実は裏で彼は私から心が離れつつありました。私に向かって「友人がお前の彼女は変だから合コンに行けば?」と誘われた事を言うのです。もう混乱です。私の態度は豹変。彼を責めます。別れる頃、私の親友と二股交際をしている事を知る事になります。激怒です。彼の家に押しかけました。それが決定的な破局です。しかし、私は納得できない気持ちと、悔しい気持ちと、どうあらわして良いかわからない気持ちでストーカーとなりました。毎日書く手紙。彼の帰宅を狙って自宅周辺で待つ。今なら警察沙汰です。アブナイ人でした。

高校時代に付き合っていた先輩に偶然再会した時に、相談しました。何度も会ってくれて振られた時に納得がいって無かったこともあり、心が少し動いていました。でも、再び付き合う事はありませんでした。

荒んだ私は、ナンパされた男性の車に乗りドライブに行く事もありました。今思うと何もなく無事に家に送り届けてくれた事が不思議なほど。本当なら乱暴されてどこかに捨てられただろうに・・・。しかし、その彼はその後も何度か連絡をくれ、ドライブを楽しみ、家に送ってくれるジェントルマンでした。そのまま交際しても良かったのかもしれませんが、私はその彼には興味が無かったのです。別れた彼氏が忘れられなくて・・・。

のこ助さん
ほんとにジェントルマンだね!!!

元彼に対しての激しい怒りと、自分の存在の疎ましさ。希死念慮が出てきました。この時も、精神科や、心療内科に行けば違った人生を送っていたかもしれません。

しかし、仕事帰りに学生時代の友人に偶然出会い、男性を紹介してもらいました。それが後の一人目の夫となります。

1.7 人生の転機1 ~1回目の結婚 思い描いた幸せは消えてしまう~

22歳で結婚した姉を習って、私も22歳で結婚したいという気持ちが強かったのです。お付き合いを始め、お互い結婚願望が強かったこともあり、話はトントン拍子で進みました。一年半の交際期間を経て結婚へ。22歳の春でした。

 

しかし、その日を迎えるまで、私がストーカーをしてた元彼が何度も連絡をくれるのです。「会いたい」と。これは、結婚する直前までありました。情もあったので会う事もありましたが、決してなびく事はありませんでした。当時の彼氏(後の夫)との「結婚」を邪魔されたくなかったのです。

無事に結婚をしました。義父が一代で築いた会社の息子という事もあり、結婚式は今と違って盛大な物でした。招待客の人数も私のお色直しの回数も多かったです。古い言い方ですが「派手婚」ですね。

職人としての腕前は良く、仕事には熱心でした。結婚を機に義父は会長に、夫は社長になりました。王国とは違う恋焦がれていた自分の生活を楽しんでいました。夫の両親と弟は優しく、初めて「」という存在を手に入れたと思いました。しかしそれもつかの間。義父の素顔が見えてきます。

のこ太くん
優しかったお義父さんがどうなったんだい??

職場を見学においで・・・と言いながらの、就職となりました。その後、何度も義父とは喧嘩が絶えず、罵声もあび、夫に助けを求めますが耳を貸しません。むしろ、趣味の競馬やゲームの邪魔をすると機嫌が悪くなるのです。私に関心が無いのか?と、疑うようになりました。義父からの攻撃はエスカレートします。会社で喧嘩をし、自宅の電話にかけてきて喧嘩をして、更に携帯にかけてきて喧嘩。これ、一日での出来事です。

結婚生活3年が過ぎた頃、夫からの驚きの発言がありました。「離婚しよう」と。なぜなのか問いただすと「俺は母親みたいな人が結婚相手で良かった。炊事洗濯をし、夜の相手もしてくれたらそれでいい。」と。「私を選んだわけではないの?」と問いに「家庭的だったし、夜の相手もしてくれるけど、自分の稼いだ金を自由に使えないのが嫌だった。実家に戻って、独身生活をもう一度謳歌したい。だから離婚したい」と。

離婚を切り出されてから、何人かの男性と親しく過ごすようになりました。関係は持ちませんでしたが、あいさつ程度で口づけは交わす事が多かったです。

のこ助さん
相当ショックだったんだね

そう。こうやって異性との交遊がエスカレートしていくのです。

結婚後に出来た友人の誘いでバンド活動もしました。幼稚園時代歌が嫌いだった私が、友人とデュオでステージにも立ちました。

右が私。左は友人。

のこ蔵さん
活動的ですなぁ〜☆☆☆

友人同士で旅行にも行きました。しかし、虚しさ、悔しさ、情けなさ、怒りの感情が止まりません。なんのために私は結婚したのだろう?ここに居るのだろう?この頃、再び希死念慮に。マンションから飛び降りようか、走行中の車の中から外に飛び出してみようか、いろいろ考えましたが、実行に移す事は無かったです。

一年ほど粘りましたが、結局離婚届に判を押して提出しました。私の憧れていた「結婚生活」は終わるのです。何人かの男性と親しくしていた中の一人と、その後付き合う事になります。26歳の頃です。

 

1.8 人生の転機2 ~2回目の結婚 ヒモと別れ、嘘つき夫との結婚~

一人目の夫との離婚の事で母に相談していましたが、我慢が足りないと言われ、これ以上何を我慢すればいいのか?と思い、苦しくて実家には帰らず一人暮らしを始めました。その後、離婚前に知り合った男性と付き合うようになりました。とにかく寂しかったのです。それを埋めたかったのです。なので彼に必死について行きました。一人の生活は辛かったのです。新しく付き合った彼は社会人として働いていましたが実質「ヒモ」でした。いつのまにか私のアパートに転がり込み、お金を入れるどころか、私が支払う事ばかり。

どうしても、彼の行動、言動に納得がいかなくて、別れました。しばらくの間ストーカーされました。当時の職場の先輩や同僚に相談し、なんとか切り抜けました。そして、ネットで知り合った男性と付き合い始めました。それが二人目の夫でした。

のこパパ
今はネットで出会ってって事が多くなったけど、たかこさんは先をいっているね!!

 

二人目の夫とは、電話やメールでやり取りをして、会うようになりました。彼は一人暮らし経験もしていたと言い、私の家まで来てお泊りして、家事を手伝う事も多く、しっかりしていて、頼もしく見えました。前彼がヒモだったので、一層良い人間に見えました。婦人病で手術をしていたので、早く出産したくて相手の事をよく知らないまま、2ヶ月でのスピード婚を成し遂げます。28歳の頃でした。

のこバァ
若かったんだねぇ〜

その頃、別の男性からも告白があり、そして今結婚しようとしてる人とは結婚しない方が良いとアドバイスをくれましたが、躁の私は聞く耳を持たず結婚へ。

のこママ
たかこさんはホントにモテたのね☆魅力的な人なのね☆

2度目の結婚。そこには大きな落とし穴がありました。一人暮らしをしていた事は嘘。趣味はゲームやコミケ。家事などした事が無い。自分の部屋を片付けた事の無い汚部屋。しっかりとした収入や貯蓄があるのも嘘。嘘だらけ。一気に絶望します。

 

再婚に焦った自分が悪いのです。でも、一度離婚していてすぐに離婚の選択肢は無かったのです。優しかったのは、私の気をひくため。嘘をついたのも気を引くため。自分との闘いと我慢の生活が始まります。緊張感で躁転し、鬱転した時は激しく希死念慮が出て、半年間笑う事なく泣く日々も続きました。そして躁転。この繰り返しです。一度だけ精神科の門を叩きました。その時に言われたのは「そのご主人とは離婚しなさい。楽になりますよ。」でした。この時はその言葉を受け入れられず、一度だけの診察で辞めました。本来は、私自身の治療をすべきだっただろうと今なら思います。

この結婚生活でのお義父さんとの関係も良くありませんでした。二人で生活し始めてしばらくしてから姑はいない家だったので義父と同居します。暴力などは無かったのですが、私を息子の嫁と見ていない事がありありとにじみ出まくってました。私の行動を監視していて正直、怖かったし気持ち悪かった。義父にストーカーされてました。とことん「父親」に恵まれてない人生だな・・・と思いました。

そんな中、二人目の夫は仕事を辞めます。すぐに就職活動をしてくれると思いきや、自由時間が出来たと喜んで、ゲーム三昧、マンガ三昧。私は家計の為と思いパートの仕事をしました。そして、数か月が過ぎ、夫がようやく仕事を見つけたと思ったころに、初心に帰って二人で生活をしようと、実家を出ました。そして、想像していなかった生活が始まります。

毎日ネットゲーム三昧。チャットで会話しながらのゲーム。彼の生活の主軸はゲームでした。ゲーム~仕事~帰宅~ゲーム。夕食が出来たと呼びかけると、「お母さんが呼んでいるから。またあとで!」なんて書いてるんです。もちろん激怒。しかし、何に怒られているのかわからない夫。そして逆ギレされます。

喧嘩の絶えない日々が続きます。どうしても平行線なのです。ああ言えばこう言う。ついに離婚の話を切り出しました。すると、豹変して大声を出して手あたりしだい物を投げつけるのです。ハサミなど凶器を持たせたら、殺されるな・・・と思い王国時代を思い出します。私の言い分を何とか理解してもらえたのですが、なぜか「明日から頑張るよ」ではなく「12月から頑張るよ」。この時9月頃です。意味が解らないので、また諭します。しかし「12月から頑張るよ」。何だよお前・・・と思うのです。

 

当然、鬱状態に。生きる気力もなく、一週間で5キロ体重が減り、手あたり次第人との交友を求めました。一人で抱え込んでいるのが苦しいのです。誰かに頼りたかった。男性でも女性でも。特に男性に甘えて頼っていた時代です。

 

のこ太くん
とっても辛い鬱だったんだね一週間で体重5キロは相当だよ

 

以前告白された男性とは、同い年という事もあり、友人として近況報告などし合っていました。離婚の時も相談しました。ただ、彼には彼女がいたのでそこまで踏み込めませんでした。そして、彼が言っていた通り、この結婚はしない方が良かったのだと気付かされました。アドバイスを受け入れ、その彼と結婚していたら違った人生だったかもしれません。なぜ、耳を貸さなかったのだろうか?これがこの病気の怖い所なのかもしれません。躁転してると、私は人の話を聞かなくなるのです。

私の親、夫の親や兄弟と家族会議を開き、離婚成立に。その時ばかりは母が家に帰ってこいと言うので、渋々実家にりました。2年の結婚生活は終わり、子供にも恵まれませんでした。

のこバァ
2年も良くたえたなんだねぇ!!!頑張った!!

 

その後、三度目の結婚をします。

1.9 人生の転機3 ~3回目の結婚 理解者は必ずいる~

二度目の結婚が終わろうとした頃、いろんな交友関係を築いた私。その中の一人が今の夫です。当時、彼は24歳東京在住。私は31歳大阪在住。この年の差で、遠距離で、バツ2の私とどうこうなる事は無かったのです。しかし、年下の彼に人生相談に乗ってもらう事も多くなり、次第に交際へ発展。もちろん私の母も親友たちも「気がふれたのか?」と猛反対。そして、彼の実家も猛反対。

しかし、月に一回は私が彼のアパートに転がりこんで数日過ごして大阪に戻る生活でした。もちろん私の病気の波は容赦なくやってきます。ハイになり、落ち込みの繰り返し。仕事はコールセンターでフルタイム勤務の仕事をしていました。東京への遠征費を稼ぐ為、シフト制の仕事でしたが、残業をするシフトを組んでもらいました。

母と、友人たちに交際の理解が得られるようになった頃、一緒に暮らし始めました。当時の夫側の状況は、渋々同居生活を認めてくれた状態でした。置かれている状況が違いましたが、私は千葉へ旅立ったのです。しかし、ここからが本当の苦しみでした。

王様の全国行脚、二度の結婚(離婚)で、何処に行ってもやっていけると、そう思い込んでいました。ハイ!思い込みです。電車の乗り方が違う。おばさんが話しかける。(大阪でもあったけれど)エスカレーターの乗り方が左右逆。言葉の壁。王国では標準語が必須だったので、困る事は無かったんですが、通じない事もあるのです。ニュアンスです。何でも笑い飛ばす大阪の会話。静かに話す関東。

仕事は、大阪で働いていた会社の紹介でスムーズに転職したものの、似た仕事でありながら、実は違う世界という事に正直戸惑いました。上司の叱責もあり、だんだん泣きながら通勤する事に。明らかに鬱でした。転職すれば、環境が変われば大丈夫!と思い転職。しかし、転職先の対応に納得いかず退職。仕切りなおして就職活動をして都内で働き始めました。ある日、仕事でトラブルが起き、上司も先輩も頼れず、辛い時期を過ごしました。ここから私のメンタルはどんどん壊れます。

のこ助さん
一人で一生懸命仕事を頑張ったんだね!!!

遠くで話す同僚を見ると、私の事を悪く言っていると被害妄想が激しくなり、友人と話をしていた事をうのみにして先輩に話すと喧嘩になり、上司に退職を申し出ても受け取ってもらえず、せめて勤務時間を減らせないか交渉するも、ダメ。

そんな時、高校のクラスメートの母子心中を知りました。ご主人の仕事で私の住まいから3駅ほどの距離に住んでいたのです。忙しさを理由に遊びに行く事をしなかった私。なぜ、顔を見に行かなかったのか。話をしなかったのか。当然自分を責めました。これが最後のダメージでした。

仕事帰りにふらっと立ち寄った心療内科で、「一ヶ月の休職」という「診断書」がでました。正直戸惑いました。これを明日提出して、仕事をせずに帰宅して療養しなさい、と当時の主治医に言われました。

一ヶ月の自由な時間だと思うと、ふさぎ込んでてしてなかった家の掃除などを張り切ってした反面、落ち着かない気分に違和感を覚えてました。今までの鬱とは違う大きな波でした。これが鬱だと知ったのは診断書が出て一月後、復職の相談に診察に行った時の事でした。「君はうつ病だね」と。ここから私は生気を失った抜け殻の状態になり、何も食べず、薬も飲まず、ただ一日中寝て過ごしていました。唯一口にしたのは、1日1個のこんにゃくゼリー。

だんだん当時の主治医が怖い存在になって、逃げるように紹介状をもらって別の病院へ行きました。そこでも「うつ病」。カウンセリングを受けながら、服薬治療を続けますが、その主治医とも喧嘩別れをして、今の主治医と出会います。そこで「双極性障害」と言われ、初めて自分の波が病気によるものだと理解できました。しかし、過去の主治医たちも、向精神薬を投与していたので、単極の鬱ではないと思っていたのかもしれません。

のこママ
信頼出来る主治医と出会えてよかったわ!!!

休職していた会社からの復職に応えることが出来ず、退職になりました。収入は傷病手当金のみ。貯蓄はほぼなかった状態です。当時の夫の収入も低く、生活は厳しかったです。傷病手当金は一年半まで。その後、働ける状態でもないのに必死で就職活動を始めます。しかし、薬の副作用でミミズがはうような字しか書けず、志望動機も薄く、年齢もあり、不採用の嵐。生活保護の相談もします。藁をもすがる思いで面接に行った会社が即採用をくれたので、仕事を始めました。しかし、ストレスで一ヶ月でリタイア。その頃、婦人病の手術がかさなりました。

そんな私を、献身的に支えてくれたのが、今の夫です。まだ籍を入れてない時にもかかわらず、通院に付き添い、希死念慮が強かった時代、何度も自殺しようとしていたのを全力で止め、抜け殻だった私をずっと一人で守ってくれていました。たとえ血のつながった家族でも、そこまで出来なかったでしょう。理解してくれる人は、必ずいるんだと後々思うようになりました。

そして、3度目の結婚。病気の事も理解してくれてとても心強いパートナーになりました。

のこ美ちゃん
素敵な旦那さんと出会えて本当に良かったわ♡

1.10 人生の転機4 ~初めての入院 任意入院初めての経験2ヶ月間~

順風満帆に見えた日々。入籍を期に近所でクローズでパートを始めました。しかし、2年半で鬱が酷くなりギブアップ。初めての入院になりました。

入院には種類があります。医師の判断ではなく、自分の判断で退院できる任意入院。医師の判断が無ければ退院できない医療保護入院。都道府県に許可を求めなければならない強制(措置)入院です。

私は任意入院で入りました。しかし、閉鎖病棟です。閉鎖病棟は制限のある生活です。しかし綺麗で明るく感じのいい病院で驚きました。食堂でみんな談笑しているのです。もっと暗く、檻があって、閉鎖的な場所だと思い込んでいました。

しかし、規律は厳しかったです。長さ2センチあるかどうかの服のリボンでさえハサミで切り取られました。パーカーの紐なんてもってのほか。持たせてくれたのはペン一本とノート一冊。少しの着替え。お金は持つ事が出来ず売店では伝票買い。後日入院費に乗ってくるシステムです。スマホなんて持たせてもらえません。

入院時の主治医からは、夫以外との連絡のやり取りは禁止されました。連絡を取りたい場合は、ナースステーションで理由を述べて10円玉を数枚くれるという方法。携帯に電話するには足りない金額。仕方なく、自宅に留守電でメッセージ。仕事が休みの時は、必ずお見舞いに来てくれました。ここでは、面会は病室でもOKでした。(後に入院した病院では異なります)

入院した部屋は、4人部屋。パーソナルスペースも比較的広く、それぞれのベッドはカーテンで仕切られていて、しかし窓は10センチほどしかあかず、空気の入れ替えでよく窓を開けていました。隣のベッドの人がとても元気で活発で積極的に話しかけてくれて、入院生活にも慣れて行きました。

この部屋は比較的他の病室と違って和やかで楽しい場所でした。病名はいろいろ。鬱、適応障害、統合失調症。そう、初めて統合失調症の方と出会いました。とても衝撃を受けました。壁に向かってずっと話しているのです。会話も通じたり通じなかったり。他の入院患者も統合失調症、双極性障害、うつ病、適応障害など、当たり前ですが精神病の集団でした。

個室や二人部屋もありました。症状が重い人は個室でした。また、暴れたりした人は、拘束具をつけられて個室に移動です。そして、見た事の無い隠れた部屋が数室。興味本位で近づくと、慌てて看護師が飛んできて「ここは立ち入り禁止だからね。」と、言われました。今思えば、保護室ですね。保護室については、後程話します。

 

お風呂は、6人ほど入れる共同風呂。男性と女性で入れ替え制でした。たまにトラブルもあり、入浴の順番やまだ男性が入浴中なのに、女性に開放するなど。そして、着替えは全て洗濯してもらう事になるので、脱衣所に置いてある袋に下着や服を分別して入れてました。すべての持ち物に名前を書かなければなりませんでした。服も靴下も。それも、初体験です。

食事は、ナースステーションの前にある広く明るい食堂でした。食事のメニューも毎日工夫がされていて、私には毎日作れないな・・・と思ったものです。座る席は自由。最初は一人で食べていましたが、同部屋の人から声をかけられ一緒のテーブルに着くようになります。楽しい時間でしたね。

同じ釜飯を食う・・・なんとやらで、自然と話す人が増えました。

作業療法も、食堂で。退院に向けてのオリエンテーションも食堂で。テレビを観るのも食堂で。幸い録画機能の付いたテレビなので、人によっては録画をして、他の人がテレビを観ない時間にドラマや歌番組を観たり。ただ、透明なガラスの扉の向こうにあるエレベーターホールには行けません。看護師のロック解除が必要なのです。それも、主治医の許可がおりた人だけが、限られた時間だけ。決まった日に集団で看護師の監視の元売店での伝票外の時間がありますが、これも限られた人だけ。

私は、しばらくの間は助手の人に買い物メモを渡して買ってきてもらっていました。主治医の許可がおりて、看護師同行の売店での買い物をする事が出来て、自由に金銭感覚もなく買い物をしていました。たまに、買いすぎだと怒られてました。軽い躁の状態だったのか、ガラスのドアの向こうに出れた事の嬉しさがそうしたのかわかりません。

そして、やっと病棟からの一定時間の外出(閉鎖病棟から出て院内の中で過ごす時間)の許可が出て、病院の敷地内を同部屋の人に案内してもらいながら歩くことが出来ました。お金が無くても自由だったのは、給茶機の冷たいお水だけ。でも、飲めるだけでも嬉しかった記憶があります。その後、外出できる時間は外に散歩に出かけてました。院内ですが。

病棟外に出れる人は、スポーツの時間があるので参加を強制させられました。全病棟から出てくるのです。参加できる種目は二つ。一つはグラウンドでのスポーツ。日によって違いました。もう一つはテニス。私は迷わずテニスをしていました。楽しかったですね。運動不足だし、外は開放的なので。

私には退院する為の課題がありました。それは、病気に理解の無い母と、王様になってしまった兄との面会。「そろそろだろう」と主治医が判断した時に、母と兄に面会許可について、夫から連絡を入れてもらいました。そして、その日がやってきます。主治医は挨拶をし、その後面会ルームでいろいろ話をしていたのを、そっと主治医は見守ります。そして、こりゃダメだと思った主治医が面会ルームに来て、この辺で・・・と、話をさえぎりました。とりあえず、課題クリアでしたが、主治医が予想していた以上の母と兄の態度に驚いたと、退院時には主治医から聞かされました。主治医は王国の片りんを見てしまったのです。

退院時期は、課題クリアしたらいつでも良かったのです。どうしようか考えていたところ、病院内は男女がいます。老若男女。しかも、男性病棟、女性病棟の壁が無いのです。同じフロアで自由にそれぞれの病室の前を歩いて通ることが出来ます。なおかつ、病棟内にはいくつもの監視カメラが設置してあり、常にナースステーションの所で監視されています。なので、男女で危険な事件は起こりませんでした。私のいた時だけかもしれませんが。

当然、恋愛もありです。正直に言って、入院患者同士の恋愛事情は面倒な事ばかりでした。しかし、入院時にしっかり守ってね!と看護師さんから言われた「連絡先の交換はしないでね」というお約束は、簡単に破られて行きます。そんな環境で、インパクトの強い女性が話しかけきて私はだんだん苦痛に感じ、主治医に「もう、退院したい」と告げました。もちろん、任意入院なので主治医は止めることが出来ません。という事で、2ヶ月ほどで入院生活は終わりを迎えました。「先生、看護師さんさようなら。みなさんさようなら」しかし、しばらくしたら再び入院する事になります。

1.11 人生の転機5 ~2回目の入院 医療保護入院からの任意入院壮絶な半年間~

退院後、仲良くなった女性と電話や手紙のやり取りなどして、親しい関係を続けていました。しかし、ある日突然「絶縁状」が手元に届きました。ショックです。なぜ?しかし、もう連絡を取る事は叶わなかったのでもうわかりません。そんなストレスが溜まって行った事が二度目の入院へつながります。

のこ太くん
精神科の入院は色々な種類があるんだね!勉強になるよ!!

次の入院先は、自宅から近い所の病院を紹介されました。入院理由は自殺未遂です。以前の病院から順調に回復していったはずなのに、いつの頃からか鬱状態に。しかも、より悪化していました。自分の身体を痛めつける事を目的にタバコ。これまでも鬱になるとちょくちょくタバコを知っていたけれど、落ち着いたらすぐにタバコは必要なくなりましたが、今回ばかりは夫に隠れてタバコを吸っていました。

そして、キッチンドランカー。冷蔵庫の野菜室奥に缶酎ハイなど常備。昼に飲む。そして、自殺場所をじっくり考える。そして準備して遺書を書く。実行する直前で夫に見つかりすぐに病院へ。そして即入院へ。

その時は、もう生きる気力もなくうなだれていました。もちろん閉鎖病棟。そして医療保護入院。自分からは退院を希望しても叶わない入院。新しい病院での主治医は良く話を聞いてくれる人でした。規制も初めの入院とは違って、比較的緩かったのを覚えています。しかし、最初の数日は保護室という特別な部屋で過ごしました。

看護師さんに誘導されてこの部屋に入って下さいと言われたその背後で「ガチャリ」とロックされる音。手に持っていたのは、7月だったのでハンドタオル。そして、入院の案内の紙。部屋は薄暗く、目の前にはシーツの無い布団が床の上に一枚と、カバーの無い掛布団が一枚。枕カバーの無い枕が一個。その向こうの景色は鉄格子。

 

ドアの前で突っ立って「なんだこの部屋」とボーっと見ていました。何歩か歩き振り返るとトイレが丸出し。トイレットペーパーは床に一個。訳もわからず、布団に横になりました。涙が流れてただただ苦しくて死にたくて辛かった。ほどなく模様してきてトイレに行くけれど、丸見えの中でするのに抵抗がある・・・。その程度の恥じらいは持っていたようです。そして、流そうと思うけれど、ボタンもレバーもない事に気付きます。どうしたらいいのか困っていたら、様子を見に来た看護師さんが、「外から流すから、また声をかけて」と言います。再び布団で横になる。この繰り返し。

食事の時間になり機械的に他にも何部屋かある保護室に、順番に食事のトレーが配られました。配ると言っても檻の下の方にある小さなスペースからスッと出される。食欲もなく、ちょっと食べて置いておきました。その後薬が配られて出されたお水で飲む。そういえば、夏だったのでペットボルの水は一本支給されていた気がします。顔を洗う事も出来ず、歯磨きもせず、着たきりのままで着替えもありません。だんだん冷静になってきたときに気付いたのが二カ所に監視カメラがある事。一つはドアから全体を、もう一つはトイレも見える角度。そして、私がいた部屋は、ナースから一番遠い所にいたという事。

何かあったら呼んでね・・・という看護師の言葉は役に立たなかったのです。というのも、興奮状態の人がナースの近くにいて、騒ぎ暴れているのです。私の声で「すみませーん」と何度も声をかけましたが誰も来てくれません。定期監視の時に初めてトイレを流してほしいと頼む事が出来ました。数日、布団に横になり、何度も読み返した案内を横に、部屋を見渡すと、壁と床の境目の所を爪でガリガリしたような跡が、所狭しとあるのです。どんどん私は冷静になって行きました。

数日後、外に出されて突然歯磨き。そして、お風呂に入る事に。運悪く生理中だった為、生理用品と下着をもらってお風呂場へ連れていかれました。前に体験したお風呂とは異なり、狭く暗い感じがするところでした。お風呂に上がって数時間が経った頃師長に呼ばれます。「どう?」と、聞かれて「暇です」と答えました。すると「その回答は正解だね。よし、大部屋に行こう。」と言われました。最初のお引越しです。

大部屋は6人部屋。カーテンは窓にかかっているだけで、ベッドの周りを囲むパーソナルスペースは無く、丸見えの世界。この病院は病衣が無いので日中の服と寝る服と着替えますが、丸見え。女性同士なので問題は無いのですが、最初の入院した病院と、同じ閉鎖病棟なのにこんなに違うのか?と、衝撃が走ります。

カーテンが無いというイメージです

物入れのスツールと、床頭台。部屋の隅には各自のロッカー。そして驚いた事に、携帯を所持は出来ませんが、ナース預かりで持てるという事。この病院では、男性病棟、女性病棟とナースの前には食堂があり食堂の辺りを境に男女が区切られていました。それぞれの病棟には行き来が出来ません。食堂にはテレビもありました。他に、デイルームと呼ばれるくつろぎスペースがあり、ソファとテレビがあります。前の病院と違い録画機能が無いので、消灯時間後のテレビ番組は観ることが出来ません。食堂では座る場所が決まってました。食事は正直言って最初の病院が美味しかったです。

前は、作業療法も病棟で行われていましたが、こちらではOT室と呼ばれる作業場所がありました。陶芸や七宝焼きの出来る窯があり、革細工や手芸だいたいの事が出来る場所でした。主治医の許可がある人は参加が出来ます。スポーツの時間も自由参加。許可の出た人は院内だったら自由に歩き回れましたが時間制限つきでした。タバコを吸う人は、ナース預かりのタバコを貰ってライターも借りて、さらにスマホも貰って外に出られました。

これはハマりました。退院後道具を購入する程に。

私は、主治医から忘れられていて、作業療法に行く事が出来ず毎日退屈でした。ペンもノートも本も自由に持ち込めましたし、前みたいに2㎝のリボンも切り取られなくなりました。ただ、ヒモはダメですが、服のデザインで付いているリボンはOK.。それっていいの?と戸惑いました。

ヒマな私の唯一の楽しみは、概ね一時間に一度のタバコの時間でした。男性病棟の奥にあるデイルームに喫煙場所があり、一人一本ずつ各自のタバコが渡されて、一列に並んで看護師に火をつけてもらって、軽く談笑しながら一本のタバコを吸っていました。タバコを吸う女性だけが、禁断の地の男性病棟へ入れるのです。

 

デイルームまでの間、いろんな声が飛び交っています。誰かと喧嘩しているのか、宇宙と交信をしている人もいてにぎやかでした。(本人は本当に交信していたそうです。)

診察は、週に一回病棟に主治医が来て、同じ主治医の人がナースセンターの前で一列で並びます。そういう点で、秩序は守られている無法地帯ではありませんでした。その診察時に作業療法は出来ないのか?と先生に尋ねたところ「あ、忘れてた。参加していいよ。あと、院内散歩もいいから。」と許可が出て、晴れて外の世界に出る事が出来ました。

病院は古い建物で、最初はウロウロしてました。喫煙所が二カ所ありますが、広い所で吸うのが病棟に近かったので、スマホをいじりながらタバコを吸っていました。そして、またしても驚く出来事が。アルコール病棟が単独で存在し、見るからに「普通だ」と見える人が何人もいるのです。後に、その方々はアルコール依存症で入院していると知りました。

作業療法でも、体育館でスポーツでも、院内散歩でも病棟に戻ると必ずボディチェックがありました。男性の看護師さんでも胸は触らなくてもポケットのある場所は確認します。なので、お尻も触られます。何か入ってると出しなさいと言われ、生理用品を忍ばせていたのも見せます。閉鎖病棟なので、出る時は「いってらっしゃい」と優しく声をかけてくれるけれど、戻った時は厳しかったです。また、売店での買い物は伝票買いで、集団で移動でした。

そして、ある日突然の病棟移動。閉鎖病棟から開放病棟へ移ります。急だった為、看護師さんと共にバタバタ荷物をまとめてお引越し。開放病棟では、ボディチェックもなく、荷物チェックも軽く、スマホは手持ち。タバコも手持ち。ライターだけ貸出。朝7時から夕方4時まで、病棟から外へ出入り自由。お金も自分持ち。なので、売店で自分で購入出来ました。なんと、一週間ごとにお小遣いも貰えました。実際は入院費に加算されているのですが、入院費の支払いを自分でしていなかったので、お小遣いと信じていました。病院外への外出も認められていて、電車で遠くまで行って買い物してくる事も可能でした。もちろん、外出日は別途外出届に記載すれば、お金ももらえるという素晴らしいシステムでした。これも、入院費に加算ですが、私は知らないままの生活がしばらく続きます。後に夫に言われて知る事になったのです。

新しい病棟の部屋は、どう考えても4人部屋じゃないか・・・という狭さで、5人で使用。パーソナルスペースが異常に狭く、カーテンで仕切るもののベットの場所によってはベッドだけを取り囲むだけの様な場所でした。個人ロッカーもあり、洗濯機があるので洗濯は自分でし、お風呂は女性専用の小さな4人も入れるのか?という狭さ。男性病棟との仕切りはナースステーションの前にある食堂を境に。しかし、4時以降病棟に滞在しなければならなくなると、夕方、食後、寝る前と三回喫煙する時間があり、一本と言わず好きなだけ吸えました。自由な時間はおよそ15分ほど。今回も、男性病棟の物干し場所と喫煙ルームが吸える場所で、タバコを吸う女性以外は男性病棟へ足を踏み込むことが出来ません。

開放病棟で、緩い規制に驚きながら気になっていたのが「医療保護入院」。しばらくしてから主治医に相談すると、調子も落ち着いてきたので「任意入院に変えるね。」と、言ってもらえて、晴れて任意入院になりました。だからと言って日常生活が特別変わる事はありません。ただ、いつでも退院を言えるという事でした。これが、後に良かったと思う事でした。

 

同部屋の方の中には何十年も入院生活を送っていた人もいました。しかし慣れてきた頃、閉鎖病棟で一緒にタバコを吸ってた方が同じ部屋になりました。慣れた人が来て良かったと思ったのもつかの間。ある日彼女は変わってしまうのです。どなりながら、私を責めるのです。物を取った、お金を盗んだ、殺そうとしている、勝手にベッドを荒らした、個人ロッカーを荒らした・・・。キリがありません。私は否定します。しかし、彼女はヒートアップ。慌てて看護師さんが二人飛んできます。私と彼女を引き離すために。私は何もしていない事を伝えました。私の話を受け入れてくれた看護師さん、頓服をくれました。

一方の彼女は興奮が収まりません。頓服を飲んだようですが、もうその日を境に私への態度へ厳しいものでした。すると、私も拒否反応するようになります。彼女の足音。ロッカーを開ける音。部屋での通話は禁止されてるにもかかわらず、彼氏に電話。そして、私への悪態をつきます。せっかく安定してきたのに、気持ちは落ちます。なぜ、あの時期に他の部屋や、他の開放病棟に移してくれなかったのか、未だにわかりません。もう、恐怖の対象でした。彼女の病気は統合失調症。何かに取りつかれると本人が以前話してくれていました。妄想幻覚幻聴が酷いのです。私に対して何かしらの思いがあったのか、妄想幻覚幻聴で私への攻撃となったのでしょう。ロックオンされました。

精神病院でお友達が出来る事は無い・・・。同じように病気を抱えているからと言って、分かり合えるとは限らないのだと、思い始めた頃です。そうです。皆調子が悪いから入院しているのですから。

毎日ビクビクして、顔色を伺っての生活は苦痛でした。退院して普通に生活が出来るか不安でたまらなかった私でしたが、入院して半年近くなった頃、主治医に退院の希望を伝えました。事情も分かっていた事もあり、受理されて晴れて二度目の退院となります。

他にも、いろんな「エピソード」はありますが、これ以上は控えます。

先生、看護師さんさようなら。みなさんさようなら」をして、退院後再び入院する時がまた来るのです。

のこ美ちゃん
入院はホントに大変だということね

1.12 人生の転機6 ~3回目の入院任意入院一ヶ月~

退院した後は、病院のデイケアに通い始めました。知らない人ばかり。でも、少しずつ打ち解けて行きました。しかし、頑張らなきゃ、普通に戻らなきゃ。でも、普通って何?どうすればいいの?の疑問符が頭の中にいっぱいです。

退院後の、今の主治医のクリニックに戻り通院生活をしていました。

鬱が酷くなって休職した頃からずっと言われていた言葉。「ゆっくり休んで下さい」。でも「休むって何?」と、ずっと自問自答でした。カウンセリングでも相談しましたが、私にはピンときません。主治医に言ってもピンときません。入院を二度経験してもピンときません。なので、上手に休む事が出来ずに日々を過ごしていました。そして、疲れてきた私は、自ら主治医に入院を希望しました。

偶然にも、空いている部屋があるという事で、即入院となりました。希死念慮が強いわけでもなく、自殺未遂をしたわけでもなく、自宅にいるより療養が出来ると思ったからの入院でした。任意入院でした。

そして、幸か不幸か以前入院した時と同じ部屋でした。しかも同じ人ばかり。変化のない部屋。そう、前回の入院でロックオンされた彼女がいるのです

初日は、「久しぶり。大丈夫?」なんて軽い会話が出来ました。一安心と思っていたのも当日だけ。翌日には前回の入院と同様の激しい彼女に豹変しました。前回と同じことを繰り返し言う彼女。この時ばかりは看護師さんが動き、別の部屋にしてくれました。私の気持ちは本当に楽になりました。しかし、また部屋を映る事になるのです。同じ病棟だと顔を会す事が多いだろうという事で、別の開放病棟に移りました。

今度の部屋は、年配の方が多く、やはり何十年入院している人がいます。その部屋のリーダー的な人が、私にターゲットロックオン

何かとこき使われていました。正直、休息目的の任意入院だったはずなのに、返って疲れてしまう生活になってしまいました。

そこで、入院時の主治医(前回と同じ)に相談し、一ヶ月で退院する事になりました。

先生、看護師さんさようなら。みなさんさようなら」となり、それ以来入院してはいません。

2. どんな精神障害を抱えていますか?

適応障害→うつ病→双極性障害です。一応2型と言われています。他には、正式には言われていませんがパニック発作も起こしたりします。父や、兄の行動を主治医に話すと、おそらく1型だろうとの事でした。私は借金まみれになった事が無いという事で、2型と言われました。しかし、日内変動もありますし、混合状態にもなり、フラットな時期を感じた事がありません。

 2.1. いつから精神障害を抱えているのか?

私の人生記録の中でも記述したように、中学生のころからですね。

 2.2. どのような症状?

徹夜しても元気で、人につくしまくり、陽気な一面がありながら、金銭面ではお小遣いを瞬殺で消す方法も会得する一方で、人に心の中で悩みを抱えて泣いて過ごした日々を送っていました。

今の症状だと、躁転すると、多弁、多動、金銭感覚のマヒ、睡眠不足でも動き回り、頭の回転がフル回転で思いついた事を手あたり次第やります。

逆に、鬱転すると気分が憂鬱になり、活動できなくなって布団の中でただ眠る。外に出る事が苦痛で、引きこもりになります。酷くなると希死念慮が出てきて、自殺の行動もとろうとしますし、現実逃避で頭がいっぱいになります。そして、自責の念でいっぱいで苦しくて苦しくて泣いてばかりの日々を送ります。特に被害妄想が酷いです。いろんな話を作っては苦しみ悩む事もしばしば・・・。

混合状態もみられ、日内変動も多く、躁と鬱をジェットコースターのように目まぐるしく行き来する日々で、フラットな時期がほぼありません。

3. 精神障害でこれまで大変だった事

自身が病気だと思っていなかったので、過去の離婚した夫や家族に大きな迷惑をかけたのだろうなと思います。他にも、友人を巻き込んでの自分の生活を送っていた事や、散在するので貯蓄が出来なくて、生活に貧窮する事はしばしばでしたね。鬱の症状が一番強かった時に外に出られない。そして、外出先で意識を失って、多くの人に迷惑をかけていましたし、何よりこういう状態の私を面倒見てくれていた夫に対しての態度が酷かった事でしょうか。

また、精神障害に対しての理解が無い事もあり、夫の実家の方では病気の事、入院の事をすべてクローズにしています。その為、薬を飲むタイミングを計るのが大変なのと、泊まる場合寝る時間が遅くなるので、リズムが狂います。

4. 今現在どんな治療を行なっている?

薬物治療が主ですね。以前はカウンセリングも行っていましたが、転院してからは主治医が話を聞いてくれるので、それをもとに処方してもらっています。

5. 現在の私

躁と鬱をずっと繰り返しています。フラットな感じが無いんです。わからないんです。なので、ジェットコースターのような日々です。主治医からは就労を禁止されているのと、服用している薬の量を考えて、単独の車の運転は禁止されています。時々デイケアに行き、定期的に支援員の方にモニタリングに来てもらっています。病院のワーカーさんに話を聞いてもらったりもします。他には、無理しないで休む事や、生活のリズムを狂わせないようにする様に気を付けています。そして、入院中に知り合った人とは、ほぼ連絡を取らなくなりました。その人の負の力に引きずられてしまうからです。病院で知り合った人と仲良くする事を夫は良く思っていません。引きずられて私の調子が悪くなる方が嫌なのです。ひいては、私の為でそう言うのだと今ではわかります。私の事を理解してくれてありがとう。

しかし、今までの経験があるからこそ今の自分がいるので、それを役立てるための活動などを模索中です。

6. 今の目標

自分の経験を活かして、誰かの役に立てればいいな・・・と思っています。

7. わたしにとって回復に役立ったと思う活動

まだ、寛解期まで遠いので「回復」に役立ったことと、言い切れませんが、生活のリズムを安定する事、お金の管理を夫に任せる時事、何かがあれば主治医に相談する事。また、支援員の方やデイケアスタッフなど相談できる人が出来た事や、グループホームの様な施設にショートステイで「」から離れる事で安定を図っています。なにより良き理解者で支えてくれる夫の存在が一番大きいです。

8.逆にわたしにとって病状を悪化させたと思う活動

初詣だと張り切って夜中から出かけるなど、生活リズムを崩す事が一番ダメですね。すぐに躁や鬱へ転じて行きます。とにかく「無理」をするとよくない事がわかりました。夫の実家に泊まる事もリズムが狂うのでダメです。あとは、何でも溜めてしま事や、自分を責めてしまう事がダメですね。我慢をしすぎる事が一番自分を追い込んでしまう事だと思います。また、楽しい事が突然降って湧いてくると、躁転するのです。躁状態は生活に困る事があります。上がってしまうポイントは残念ながら未だにわかりません。

9. 繋がろう!!

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